題材からめぐる
七福神
本の参照頁:森 p.50・59・91・108
七福神
幸福を招くという七体の神様のことで、七体の組合せは時代によって異なっています。七人を組合わせたわけは、「竹林の七賢人」にならったとか、お経の「七難即滅、七福即生」という言葉に基づいたものだとか言われています。
七福神の信仰は、商業の盛んになった室町時代の終わり頃から始まり、江戸時代に入ると「七福神詣り」といって、元日から七日迄に一年の福運を祈るため七福神を祀った寺社を巡拝することが流行したということです。
七福神−①「恵美須(エビス)」
エビスは大黒と並んで福の神の代表とされています。
エビスは、恵比寿・戎・夷などとも書かれ、これは異邦人(よその国の人)を意味している言葉です。そこから、エビスとは、よその土地からやってきて幸をもたらす客神をさすものといえるでしょう。
また、イザナギ・イザナミの三番めの子供で、三歳になっても脚がたたず葦舟にのせ海に流され、その後、摂津国西宮の海岸に流れ着き西宮の祭神となった「蛭子命(ヒルコノミコト)」が、エビスであるとも言われ、大国主命(オオクニヌシノミコト)の子供で、大の釣好きの「事代主命(コトシロヌシノミコト)」がそうであるとも言われています。エビスは、豊漁をもたらす神、航海の守護神とされる他、市場の神、商業の神ともなり福の神の一人として祀られてきました。一月・十月の二十日は恵比寿講の日とし農業、山の神としての信仰も集めています。
七福神−②「大黒天(ダイコクテン)」
ダイコクテンは、大黒大神という仏教の守護神でその前はヒンズー教の神様であったそうです。
昔、中国南方の寺では、厨(台所)にダイコクテンを祀っていました。伝教大師がそれを日本に持ち帰り、比叡山延暦寺に祀ったのが広まったとも言われています。
さらに、「大黒」と「大国」の字音が同じであるため、いつのまにか日本神話に出てくる大国主命(オオクニヌシノミコト)と合わさって、もとはすっかり違った、肩に大きな袋を背負い右手に打出の小槌を持って米俵にのった、日本的なダイコクテンが作り上げられたものといえるでしょう。
(③寿老人・④福禄寿はP59、⑤毘沙門天・⑥弁財天はP91、⑦布袋はP108に)
この解説が載っている箇所:水哉社(本町) 森の巻 p.50-51、稲盛社(一ノ瀬・大府川) 北の巻 p.77-78
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
七福神③ 寿老人(じゅろうじん)
幸福を招くという七体の神様「七福神」のうちの一人。「寿老神」とも言われ、中国の宋の時代に現われたと言われる。頭の長い老人で、杖を携え、杖の頭には巻き物をつけ、うちわを持ち、鹿を従えています。長寿を授けてくれる神とされていますが、「福禄寿」と同じ人物ではないかという説もあります。
(七福神についてはP50)
この解説が載っている箇所:鳳雲社(大門) 森の巻 p.59
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
七福神④ 福禄寿(ふくろくじゅ)
中国の宋の時代に、南北星の化身としてこの世に現われたという道士(道教の神様、仙人)であると言われています。背が低く、頭が長く美しい髭を蓄えていて、常に経巻を結びつけた杖を持ち、多く鶴を従えています。
年は数千歳で長寿をつかさどるおめでたい神として七福神の中に入ってきたものと思われます。
この解説が載っている箇所:鳳雲社(大門) 森の巻 p.59、福明社(福田地) 南の巻 p.95
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
七福神⑤毘沙門天・⑥弁財天
七福神 ⑤「毘沙門天」(ビシャモンテン)(御廉脇右)
インドで「須弥山(しゅみせん)」(仏教の中で、世界の中心にそびえたつという山のこと、または寺院で仏像を安置する壇)を守る四天王の一人で、別の名を「多聞天(たもんてん)」と言い北面の守護神とされています。
姿は、左手に仏塔を持ち、右手には鉾を持って邪鬼を踏み付けています。このように仏法を守る武神として、初めは国を守るためや、戦に勝つために祀られていましたが、次第に、福徳増進の目的でも祀られるようになり、七福神の中に組み入れられるようになったと言われています。
七福神 ⑥「弁財天(ベンザイテン)」(御廉脇左)
七福神の紅一点、弁財天は、琵琶を弾く美人の姿をしています。この神様は、もとは、インドのインダス川を神様として表したものだったそうです。そのせいか、日本でも水辺の近くの「ほこら」に祀られていることが多いし、水辺に住む蛇と結び付けられたりもしています。
ぼん語「サラスヴァティ」が、妙音天妙音楽天と訳され、それが、大弁財天、大弁財天女などと呼ばれ、さらに、略して「弁天」、俗に、「弁財天」とも呼ばれるようになったと言われています。
この神は、人に幸福や知恵を与え、長生きや財宝を授けてくれ、天災地変を防ぎ、戦では勝利をもたらしてくれる仏神であり、さらに、人の汚れを払い、富貴名誉・食物・勇気・子孫繁栄だけでなく学問や技芸・雄弁をも守ってくれると言う結構ずくめの神として信仰されているようです。 また、「弁財天」は、ぼん天の妻と言われたり、日本の神話に出てくる宗像三神の一人、市杵島媛命と結びつけたりもすると言う事です。(七福神についてはP50を)
この解説が載っている箇所:藤雲社(栄町) 森の巻 p.91、共進社(乙丸) 北の巻 p.97
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
七福神⑦ 布袋(ホテイ)と唐子
七福神の中でただ一人の、中国に実在した人物を神に見立てた福の神であります。唐時代の禅僧で「契此(かいし)」というのが本当の名前ですが、その楽天的な性格や、子供達を可愛がり、常に、にこにこしていることから、一般には「布袋和尚(ホテイオショウ)」と呼ばれて親しまれていたということです。
常に、杖をもって布袋を荷ない、半裸で大きなお腹を出して福々しい顔をした姿を見た人々は弥勒(みろくぼさつ)の化身であると言って尊んだということです。(七福神についてはP50)
この解説が載っている箇所:沿海社(川原町) 森の巻 p.108、共進社(乙丸) 北の巻 p.98
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
七福神
幸福を招くという七体の神様のことで、七体の組合せは時代によって異なっています。七人を組合わせたわけは、「竹林の七賢人」に倣ったとか、お経の「七難即滅、七福即生」という言葉に基づいたものだと言われています。
七福神の信仰は、商業の盛んになった室町時代の終わり頃から始まり、江戸時代に入ると、「七福神詣り」といって、元日から七日迄に一年の福運を祈るため七福神を祀った寺社を巡拝することが流行したということです。
① 「福禄寿(ふくろくじゅ)」
中国の宋の時代に、南北星の化身としてこの世に現われたという道士(道教の神様、仙人)であると言われています。
背が低く、頭が長く美しい髭を蓄えていて、常に経巻を結びつけた杖を持ち、多く鶴を従えています。年は数千歳で長寿をつかさどるおめでたい神として七福神の中に入ってきたものと思われます。
② 「寿老人(じゅろうじん)」
「寿老神」とも言われ、中国の宋の時代に現われたと言われる、頭の長い老人で、杖を携え、杖の頭には巻き物をつけ、うちわを持ち、鹿を従えています。長寿を授けてくれる神とされていますが、「福禄寿」と同じ人物ではないかという説もあります。
(他の七福神はP.77・97)
この解説が載っている箇所:神明社(黒石) 北の巻 p.34-35
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
七福神①布袋
幸福を招くという七体の神様のことで、だれとだれを七体組合せるかは時代によって異なっています。
七人を組合わせたわけは、「竹林の七賢人」に倣ったとか、お経の「七難即滅、七福即生」という言葉に基づいたものだと言われています。
七福神の信仰は、商業の盛んになった室町時代の終わり頃から始まり、江戸時代に入ると「七福神詣り」といって、元日から七日迄に一年の幸運を祈るため七福神を祀った寺社を巡拝することが流行したということです。
七福神−①「布袋」(ほてい)(左の下)
七福神の中でただ一人の、中国に実在した人物を神に見立てた福の神であります。唐時代の禅僧で「契此(かいし)」というのが名前ですが、その楽天的な性格や、子供達を可愛がり、常に、にこにこしていることから、一般の人々からは「布袋和尚(ホテイオショウ)」と呼ばれて親しまれていたということです。
常に、杖をもって布袋を荷ない、半裸で大きなお腹を出して福々しい顔をした姿を見た人々は弥勒(みろくぼさつ)の化身であると言って尊んだということです。(他の七福神はP47・95・101・102・119を参照)
この解説が載っている箇所:城栄社(城北) 南の巻 p.41
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
七福神②弁財天
七福神の紅一点で、琵琶を弾く美人の姿をしています。
この神様は、もとは、インドのインダス川を神様として表したものだったそうです。そのせいか、日本でも水辺の近くの「ほこら」に祀られていることが多いし、水辺に住む蛇と結び付けられたりもしています。ぼん語「サラスヴァティ」が、妙音天妙音楽天と訳され、それが、大弁天、大弁財天女などと呼ばれ、さらに、略して「弁天」、俗に、「弁財天」とも呼ばれるようになったと言われています。
この神は、人に幸福や知恵を与え、長生きや財宝を授けてくれ、天災地変を防ぎ、戦では勝利をもたらしてくれる仏神であり、さらに、人の汚れを払い、富貴名誉・食物・勇気・子孫繁栄だけでなく、学問や技芸・雄弁をも守ってくれると言う結構ずくめの神として信仰されているようです。また、「弁財天」は、ぼん天の妻と言われたり、日本の神話に出てくる宗像三神の一人、市杵島媛命と結びつけられたりもすると言うことです。(他の神様はP41・95・101・102・119参照)
この解説が載っている箇所:宝僊社(西組) 南の巻 p.47
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
須佐之男命の八俣の大蛇退治/布袋と唐子
須佐之男命の八俣の大蛇退治(左右御簾脇・P.26参照)、布袋と唐子(左欄間)P41参照
この解説が載っている箇所:東雲舘(東組) 南の巻 p.53
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
獏/鶴・亀/七福神/双龍
獏(木鼻)P96参照、鶴・亀(支輪)詳しくはP22・P119参照、七福神(左右御簾脇・正面欄間)詳しくはP41・P47・95・101・102・119参照
この解説が載っている箇所:南開社(南戸綿) 南の巻 p.89
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
七福神③毘沙門天
インドで「須弥山(しゅみせん)」(仏教の中で、世界の中心にそびえたつという山のこと、または寺院で仏像を安置する壇)を守る四天王の一人で別の名を「多聞天(たもんてん)」とも言い、北の守護神とされています。
姿は、左手に仏塔を持ち、右手には鉾を持って邪鬼を踏み付けています。
このように仏法を守る武神として、初めは国を守るためや、戦に勝つために祀られていましたが、次第に、福徳増進の目的でも祀られるようになり、七福神の中に組み入れられるようになったと言われています。
この解説が載っている箇所:福明社(福田地) 南の巻 p.95
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
七福神⑤恵美須・⑥大黒天
七福神……⑤「恵美須(エビス)」(右御簾脇)
エビスは大黒と並んで福の神の代表とされています。エビスは、恵比寿・戎・夷などとも書かれ、これは異邦人(よその国の人)を意味している言葉であります。そこから、エビスとは、よその土地からやってきて幸をもたらす客神をさすものといえるでしょう。
また、イザナギ・イザナミの三番めの子供で、三歳になっても脚がたたず、葦舟にのせて海に流され、その後、摂津国西宮の海岸に流れつき祭神となった「蛭子命(ヒルコノミコト)」が、エビスであるとも言われます。
また、大国主命(オオクニヌシノミコト)の子供で大の釣好きな「事代主命(コトシロヌシノミコト)」がそうであるとも言われています。
エビスは、豊漁をもたらす神、航海の守護神とされる他、市場の神、商業の神ともなり福の神の一人として祀られてきました。一月・十月の二十日は恵美須講の日として、農業、山の神としての信仰も集めています。
七福神……⑥「大黒天(ダイコクテン)」(左御簾脇)
ダイコクテンは、大黒天神という仏教の守護神でその前はヒンズー教の神様であったそうです。
昔、中国南方の寺では、厨(台所)にダイコクテンを祀っていました。伝教大師がそれを日本に持ち帰り、比叡山延暦寺に祀ったのが広まったとも言われています。
さらに、「大黒」と「大国」の字音が同じであるため、いつのまにか木槌を持って米俵にのった日本神話に出てくる大国主命(オオクニヌシノミコト)と合わさって、もとはすっかり違った、肩に大きな袋を背負い右手に打出の小槌を持った、日本的なダイコクテンが作り上げられたものといえるでしょう。
この解説が載っている箇所:賀明社(鴨谷) 南の巻 p.101-102
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
七福神⑦ 寿老人(じゅろうじん)
七福神のうちの一人で「寿老神」とも言われ、中国の宋の時代に現われたと言われる。
身長三尺ほどの老人で、長い頭は身長の半ばであり、長く美しいひげをたくわえている。
鹿を従え、手にはうちわや、杖を持っていて、杖の頭には巻き物がつけられ、その巻き物には、それぞれの人間の寿命が記入されていると言われます。
1500年の長寿を保ったといわれ、長寿を授けてくれるおめでたい神とされていますが、「福禄寿」と同じ人物ではないかという説もあります。
この解説が載っている箇所:草栄社(草ケ谷) 南の巻 p.119
書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。
この題材の彫刻(24台・76点)