足柄山での秘曲伝授 (御簾脇、左右)
源義光(みなもとのよしみつ)は、新羅三郎とも呼ばれ、武士でしたが笙(しょう)の名人でもありました。笙というのは、17本の細い竹をまとめて横に吹き口をつけた雅楽に使う楽器で、「笙の笛」ともいわれるものです。
兄は、八幡太郎義家と呼ばれる有名な武士で、その頃奥州(東北地方)へ戦いに行っていましたが、弟の義光は、都で宮中を守る役についていました。奥州で戦っている兄が苦戦をしているという連絡がきたために、その役目をやめて助けにむかうことにしました。
道をいそいで、近江国 鏡の宿(今の滋賀県鏡山)の近くまで来たときのことです。若い男が馬を急がせて追いかけてきました。不思議に思ってよく見ると、それは「豊原時秋(とよはらのときあき)」という楽人(楽器を演奏する人)でした。義光が追いかけてきたわけをきくと、「おともをしたいと思ってやってきました。お許しください。」と答えるだけで、くわしい訳は言いません。 「このたびは、戦のために奥州へ行くところです。連れて行く訳にはいきません。」義光がいくらことわっても、時秋はどこまでもついて来ます。時秋は、義光の笙の先生の豊原時元の子供でした。
笙の先生、豊原時元がなくなるとき、この息子の時秋はまだ幼くて、豊原家に代々伝わってきた秘曲(特別の家系か、特別の腕前の者にしか教えない秘伝の曲)を教えることが出来ませんでした。自分が死ぬと秘曲が滅んでしまうことを恐れた時元は、一番腕のいい弟子の義光にだけこれを伝えたのでした。
時秋は、父時元から秘曲を伝えられた義光からこの秘曲を学ぼうと、後を追ってきたにちがいありません。
義光は、武士たちが野宿している場所から離れた草の上に楯(たて)を二枚敷き、時秋とむかい合って座りました。
義光は、しずかに矢の入れ物の中から、先生の時元が書いた「大食調入調(だいじきちょうにゅうちょう)」という秘曲の譜を取り出しました。「これは、あなたの父上から授けられた秘曲の譜です。はるばる私をしたってこられたのは、きっとこのためでしょう。」
そういわれた時秋はだまってふところから笙を取り出して差し出しました。
それを受け取った義光は、吹き口をしめすと、しずかに秘曲を吹き始めました。雲一つない十五夜の晩です、笙の音が月に照らされた草の上にひびき、流れていきます。全身を耳にして聞いていた時秋は、曲が終わったときには、その両目に涙があふれていました。
どうしてもおともをしたいという時秋に「私は戦場に行く身で、生きては帰れません、もし、私につくしてくれる気持ちがあるなら、早く都に帰って笙の道にはげみ、秘曲を正しく伝えてください。」といい論しました。
あくる朝、秘曲の譜をふところに、時秋は都へ帰っていきました。これを見送った義光はふたたび奥州の戦場をめざして道を急ぎました。
出典:屋台物語 南の巻 p.17-18(書き起こし・書き起こし(未校正))
菅原道真 (正面欄間)
菅原道真は、平安時代中ごろの学者、政治家としても名高い人です。
彼は、少年の頃より大変苦労をしながら学問を身につけた努力家で、11才の時には立派な詩を作って父親を驚かせたということです。元慶元年(877年)には文章博士という詩文や歴史を教える教授の位になり、政治家としても活躍しました。特に宇多天皇からは信頼され、その頃、勢力を強めてきた藤原氏の勢力を抑えるために次の醍醐天皇の時は天皇を助ける右大臣の役を与えられました。
しかし、勢力を独り占めしたい藤原氏の計略で、延喜元年(901年)道真は突然、低い位の役人に下げられ、都から九州の太宰府という役所に追い払われてしまいました。「道真は元の天皇、宇多上皇を裏切って、天皇の廃立を謀っている。」と、藤原時平らが偽りの告げ口をしたためでした。
力を落した道真は「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 主人(あるじ)なしとて春な忘れそ」(庭の梅の木よ、たとえこの家の主人がいなくなっても、春になり東風が吹いてきたなら 忘れずに花を咲かせてくれよ。という意味。)の歌を詠んで、2月1日に九州の太宰府へと向いました。
太宰府では、失意のなか、以前に天皇からいただいた衣装をおしいただいてはながめ、都でのことを思い返し、藤原氏をうらみながら暮らす毎日でした。
そのような中、ついに延喜3年(903年)道真は九州太宰府で都を思いつつ59才で亡くなりました。
その時から後、都を中心にあらゆる天災地変がつぎつぎに起こりました。洪水・疫病・落雷・大火事、その次は日照り・秋には暴風雨、空には流れ星が現われ人々をいっそう不安にさせます。
延喜9年には藤原時平が39才の若さで急病で亡くなり、延喜15年には赤痢が流行し、醍醐天皇も病気になりました。15年には、咳病の流行で皇太子が亡くなりました。このころから「菅原道真のたたりではないか。」といううわさがささやかれ、どんどんと広まっていきました。死んだ道真の位を大臣に戻し正二位の位にし、さらに「火雷天神」という号を贈り、年号も「延長」と改めましたがききめはありませんでした。
次の皇太子も亡くなってしまいます。延長8年、ひどい日照り続きの対策の会議中、そこへ雷が落ちて二人が即死し、醍醐天皇も打ちのめされ退位を宣言しましたが間に合わずに亡くなってしまいました。やはり道真のたたりにちがいないと、これを鎮めるために祀ったのが「北野天満宮」(天神様)で、学問に優れていた道真を祀っていることから、今でも学問の神様・受験の神様としても信仰を集めているというわけです。
出典:屋台物語 南の巻 p.18-19(書き起こし・書き起こし(未校正))
飛竜 (左右脇障子)
(キャプションのみ)
出典:屋台物語 南の巻 p.19(書き起こし・書き起こし(未校正))
鬼が島へ向かう桃太郎 (後欄間)
(P88参照)
出典:屋台物語 南の巻 p.19(書き起こし・書き起こし(未校正))
七福神 (左右欄間)
(P41・47・95・101・102・119参照)
出典:屋台物語 南の巻 p.20(書き起こし・書き起こし(未校正))
宝づくし (支輪)
「宝づくし」とは、縁起のいい宝物をいくつか集め文様化したもので、その源をたどっていくとインドにまでいたるということです。現代に伝わっている宝づくしの文様の原型は、中国で出来上がり、十二世紀頃に日本に伝わってきたものではないかと言われています。
その宝物の組合せはいろいろとありますが、どれも金や財物にからんだものから、変身の道具であり、この文様を作り出した昔の人々がいかに富貴を求め不老不死を夢み、仙人の世界に憧れていたかをうかがい知ることができるとともに、人間の欲の限りないことを思わないではいられません。
「宝珠(ほうじゅ)」「打ち出の小槌」「金袋(巾着)」「隠れ蓑(かくれみの)」「隠れ笠」「丁字(ちょうじ)=貴重な香料」「輪つなぎ(七宝)」「巻き物」などに日本でつけ加わったと思われる「福俵」「小判」等が入り、それらの中から組み合わせがされているようです。
出典:屋台物語 南の巻 p.21(書き起こし・書き起こし(未校正))
鶴 (支輪)
「つる」は、白い色、端正な姿をしているところから、高貴な鳥・瑞鳥として大切にされ捕えると罰せられる時代もありました。よく、「松に鶴」としてその配合・取り合せがいいところからおめでたい図柄として描かれます。しかし、本当は鶴は地上にだけ巣を作り、松の枝にはあまり止まったりはしないということです。
万葉集の時代には、「たづ」とか「あしたづ」と呼ばれていて、その頃は、松の枝に止まったり、巣を作ったりする「こうのとり」もこの仲間と同一視されていたということから、この図柄が生まれてきたのかも知れません。
出典:屋台物語 南の巻 p.22(書き起こし・書き起こし(未校正))