屋台をめぐる / 森の祭り(旧森町)
龍生社 西幸町
本のスキャン(仮) 森の祭り(森の巻) 扉 p.63(1991年刊)基本情報
| 読み | りゅうせいしゃ(にしさいわいちょう) |
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| 落成年 | 昭和55年10月 |
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| 社名の由来 | 新興住宅地であるこの地区が、龍が昇天する如くすべての面で発展することを願って命名した。 |
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| 工匠 | 小栗新太郎(磐田市) |
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| 彫刻 | 早瀬宏(2代目朝雲=浜松市) |
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| 塗装 | 村井斉(愛知県西尾市) |
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| 車輪 | 村松利雄(仲横町) |
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| 御廉の社名揮毫 | 記載なし |
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| 備考 | 典雅なこの屋台は、昭和55年10月落成以来、新興住宅地である町内住民の統一と団結のシンボルとして、大きな役割を果たしている。欄間の彫刻は、太閤記の場面を画題としている。塗装は、昭和55年落成の4年後、昭和59年10月。 |
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出典:森の祭り(森の巻) p.64
この屋台の写真(2枚)
彫刻
新田義貞の鎌倉攻め(稲村が崎) (御簾脇、左)
鎌倉幕府の勢力は、次第に弱まってきていました。
1333年春、京都で足利尊氏が、鎌倉幕府を倒そうと、兵を挙げました。一方、上野の国(いまの群馬県)では、新田義貞も兵を挙げました。義貞は、途中、幕府の軍と各地で激しく戦いながら嵐のように鎌倉を目指して進みました。出発の頃に750騎だった軍勢も、次々に増え20万以上にもなりました。
いよいよ鎌倉へ攻め込もうとしたときのことです。
鎌倉は、東・北・西を険しい山にかこまれ、山の低い所にある切り通しは、幕府の軍で固められています。南は海、海岸沿いに攻めようとしても、「稲村が崎」という所は、波打ちぎわまで険しい崖がせまり、大軍が通ることはできません。その上海には、多くの船が浮かべられ海岸を通るものに横から矢を射かけようと待ち構えています。
稲村が崎まで大軍を率いて来た義貞は、進むことも退くことも出来なくなってしまいました。
その時のことです、義貞は馬から下り、かぶとをぬぎ、そこへひざまづき、海の神「竜神」にむかって祈り始めました。
「私は、天皇のために、忠義を尽くして戦っています。どうぞ、波の逆巻く海の水をずっと向こうまで退け、軍の進む道を開き給え」といいつつ、自分の着けていた黄金づくりの太刀を抜き、海中へ投げ入れました。
すると、不思議なことに、潮の干る時刻ではないのに、見るみるうちに潮がはるか向こうまで退けて、敵の乗っている船も岸からずっと遠くへ押し流されてしまいました。
神も味方をしてくれると、元気いっぱいの大軍は、潮の退いた海岸を鎌倉へ攻め込み、ついに鎌倉幕府をほろぼしました。1333年5月21日のことです。
出典:森の祭り(森の巻) p.65(書き起こし・書き起こし(未校正))
湊川の戦い (御簾脇、右)
150年間続いた鎌倉幕府が倒され、天皇の政治に変わりました。しかし、天皇の味方をして戦った武士たちの期待を裏切った政治をしたため、足利尊氏を中心にした武士が天皇方に反抗し、戦になりました。
1336年(建武3年)、いったん九州に退いた尊氏は、大勢の兵を集め、都へむかって攻めてきます。これをくいとめようと、新田義貞の軍が、兵庫に陣をしいていますが軍は疲れ切っています。
後醍醐天皇は楠木正成を呼び「すぐに兵庫へ行き、義貞に協力をするように。」といいました。これに対して正成は、「今度の敵は新手ばかりの大軍です。味方は、疲れ切った小勢です。 まともに戦っては、必ず負けてしまいます。どうぞ、新田殿の軍をすぐ京都に呼び戻し、いっしょに比叡山に上ってください。私は近畿地方から軍を集め、敵を淀川の下流で防ぎます。そうすれば、都へ入った尊氏の兵は、食糧を運ぶ道を両方から止められ、だんだんと軍勢は疲れ、兵も減ってしまうでしょう。そこで、新田殿は山からおしよせ、私が敵の後から攻め上りましょう。そうすれば、必ず尊氏を破ることができます。戦は、途中のことより、最後に勝つことがかんじんです。」と申し上げました。
作戦の名人、正成の考えにほとんどの人が賛成でした。しかし、宰相の平清忠だけが一人反対でした。「天皇に反抗する軍を討ちに行った将軍が、戦もせずに逃げ帰るようでは、天皇の値打ちにもかかわる。正成をすぐ兵庫にむかわせ一緒に戦わせるべきだ。」この一言で、天皇は正成を兵庫へ向かわせることにしました。
正成は、勝つ見込みのない戦ではあっても、天皇の命令に従い立派に戦うしかないと、死を覚悟し、弟の正季をはじめ五百の味方を率いて出発します。途中、桜井という所では、自分の子供の正行に、天皇からいただいた菊水の刀を形見として与え「生き残って天皇のために、尽くしなさい」と最後の別れをし、むりやり帰らせ、湊川の合戦へとむかいます。
出典:森の祭り(森の巻) p.66(書き起こし・書き起こし(未校正))
矢作橋 (後欄間)
三河の国(今の愛知県)、矢作川の橋の上。
顔は、ひげぼうぼう、なぎなたや、まさかりをかついた野武士(戦いがあるとお金をもらって雇われて働き、お金が無くなると悪いこともする、殿様を持たない武士の集まり)の一隊がやって来ました。
橋の中程で、先頭の大将が急に立ち止まりました。橋のまん中に、むしろをかぶった人間がいびきをかいて寝ているようです。
「え―い、じゃまだ」大将は、足でむしろをけとばし、槍の柄で払いのけようとしました。そのとたん、槍の柄は、寝ている男の手でしっかりと捕まれてしまいました。「やい、無礼なやつ!」乞食のような、うすぎたない子供があぐらをかいてにらみつけています。「人の足をけりつけて、黙って行くやつがあるか。何とか言え!」相手が子供だったので大将はひょうしぬけしてしまいました。「武士なら武士らしく礼儀を知れ。お前はそれでも武士か。」子供は、体に似合わず大きな声でどなります。
手下達は「やい、小僧、大将にむかって何をぬかす。ひどい目に合わせてやろうか」と、刀を抜いてつめよりました。
「待て待て、きさまの言うとおりだ。俺が悪かった。」大将の、蜂須賀小六正勝があやまったので、子供は槍から手をはなしました。この、薄汚い、猿のような顔をした子供の肝っ玉の大きさと頭の良さを感じた蜂須賀小六は、武士になりたいというこの子供を家に連れていくことにしました。
1549年(天文18年)7月、この薄汚い子供「日吉丸」(後の豊臣秀吉)13才の時の出来事です。
出典:森の祭り(森の巻) p.67-68(書き起こし・書き起こし(未校正))
藤吉郎(秀吉)、中村から母親を呼ぶ (右欄間)
信長が美濃の国(今の岐阜県)に向って攻める時、小さな城は攻め落としたのですが、大将の斉藤竜興がいる稲葉城だけは攻め落とすことができません。
そこで、稲葉城を守るようにそのそばを流れている墨股川の向こう側へ城をつくり、そこから攻めようと考えました。
敵の目の前につくる城です、誰がやっても敵に攻められうまく出来ません。最後に藤吉郎(後の秀吉)が、計略を使い、蜂須賀小六と野武士の協力を受け、敵の攻撃を防ぎつつ、ついに城を作り上げました。
次に、この城を足場に稲葉城を攻める時、敵方の戦の先生、竹中半兵衛を味方につけ、蜂須賀小六の協力も得、柴田勝家とともに、ついに稲葉城を攻め落とすことが出来ました。
大喜びで墨股城にかえった信長は、祝いの酒盛りをして、この墨股城を藤吉郎に与えてくれました。
墨股城の大将となり、馬印をつかうことを許された藤吉郎は、さっそく生まれ故郷に使いをやり、母親と、弟の小竹、妹のあさを呼び寄せました。母は、夢をみているのかとばかりに大喜びをしました。
1567年(永禄10年)藤吉郎が31才の時のことです。
本のスキャン(仮)p.68藤吉郎(秀吉)、中村から母親を呼ぶ(母を迎える秀吉) 調査中
欄間 右 解説 p.68
基本情報の備考:欄間の彫刻は太閤記の場面を画題としている。
本のスキャン(仮)p.68藤吉郎(秀吉)の場面 右下の写真 調査中
欄間 右 解説 p.68
p.68右中の写真。キャプションなし(同じ右欄間の別カットか要確認)
出典:森の祭り(森の巻) p.68(書き起こし・書き起こし(未校正))
賤ケ嶽の七本槍 (左欄間)
織田信長が、本能寺で家来の明智光秀に討たれると、その後継ぎをめぐって、柴田勝家と羽柴秀吉が対立、戦になりました。
1583年(天正11年)攻めてくる勝家の兵を、秀吉の軍が賤ケ嶽に迎え撃った時のことです。
秀吉軍の、加藤清正は、戸波隼人を馬から落として首をはね、山路正国とは槍を捨てて組み合い、そのまま崖下に落ち、そこで首をとりました。
福島正則は拝郷五左衛門の、糟屋武則は宿屋七左衛門の首をそれぞれとりました。
平野長泰は、小原新七・村松友十郎の二人を、脇坂安治は、槍の名人水野助兵衛を討ちとりました。
加藤嘉明は、雑兵を次々に倒し、最後には、浅井吉兵衛の首をはねました。 片桐且元は北国一の勇士安彦弥五左衛門と激しく戦い、相手が槍の先を石に当ててひるんだところを刺して首をとりました。 この賤ケ嶽の戦いで華々しい活躍をし、秀吉の軍を勝利に導いた、これらの若武者に、秀吉は一番槍の感状を与えました。
また、彼らの武器が、みな槍だったことから、これらの若武者を、人々が「賤ケ嶽の七本槍」と呼ぶようになったということです。
本のスキャン(仮)p.69賤ケ嶽の七本槍(活躍する七本槍) 調査中
欄間 左 解説 p.69
基本情報の備考:欄間の彫刻は太閤記の場面を画題としている。
本のスキャン(仮)p.69賤ケ嶽の七本槍 別の写真 調査中
欄間 左 解説 p.69
p.69左下の写真。同じ左欄間の別カットか要確認
出典:森の祭り(森の巻) p.69(書き起こし・書き起こし(未校正))
加藤清正の虎退治 (正面欄間)
秀吉の命令で、加藤清正が朝鮮へ軍を出しているときのことです。晋州城を攻めようと、大きな山のふもとに陣をかまえていました。或る夜のこと、山から大きな虎が出てきて清正の愛馬を食い殺してしまい、さらに、清正のそばに仕えて身の回りの仕事をしてくれる小姓の上月左膳まで食い殺してしまいました。
くやしがった清正は、次の日朝早く、家来を大勢集め山を取り巻き、敵討の虎狩りを始めました。
やがて一匹の大きな虎が、茂みをかきわけ、のっそのっそと出てきました。清正は大きな岩の上に鉄砲を持って立っています。清正と虎の間は30間(5〜60メートル)、清正は虎をにらんで立ったままです。それを見た家来たちが、鉄砲をそろえて撃とうとしました。すると清正は、それをやめるように家来たちに合図をし、自ら、仇を討とうと鉄砲を構えました。虎は清正にむかってものすごい勢いで猛り狂ったように走ってきます。まさに、大きな口を開き清正にとびかかろうとしたその時、清正の鉄砲が火を吹きました。のどもとを撃たれた虎はその場に倒れました。いったん倒れた虎は、残った力をふりしぼって再び立ち上がりかけましたけれども痛手だったために、どうと倒れ、今度は起き上がることは出来ませんでした。
この話が、清正が槍の名人であったことと合わさり、槍で虎を退治している図となって伝わって来たものと思われます。
本のスキャン(仮)p.70加藤清正の虎退治(虎を退治する加藤清正) 調査中
欄間 正面 解説 p.70
基本情報の備考:欄間の彫刻は太閤記の場面を画題としている。
出典:森の祭り(森の巻) p.70(書き起こし・書き起こし(未校正))
十二支 (支輪)
(くわしくは P118参照)
出典:森の祭り(森の巻) p.71-72(書き起こし・書き起こし(未校正))
七福神 恵比寿・大黒/獅子 (支輪・木鼻)
(P50参照)
出典:森の祭り(森の巻) p.72(書き起こし・書き起こし(未校正))