屋台に刻まれた物語English

屋台をめぐる / 北(天方)

八幡社 大鳥居

八幡社(大鳥居)の屋台
本のスキャン(仮) 屋台物語 北の巻 扉 p.13(1993年刊)

基本情報

読みはちまんしゃ(おおどりい)
落成年昭和54年10月
社名の由来大鳥居地区の氏神様「八幡宮」の名前にちなんで社名とした。
工匠安間宇太郎(大鳥居)
彫刻早瀬宏(浜松市)
塗装村上健太郎(浜松市)
車輪大場馨(袋井市川会)
御廉の社名揮毫御簾製作 亀八人形店(森町天宮)
備考昭和54年新築、5年後(昭和59年)塗装して完成。建具は野口浅一(森町城下)。昭和27年より屋台の引き回しが始められる。現屋台は2代め。初代屋台は昭和27年、森町三倉(共盛社)より購入し、車輪のみ新調(鈴木紋次=森町天宮)して引き回す。昭和54年に袋井市方丈へ売却、現在活躍中。

出典:屋台物語 北の巻 p.14

彫刻

弁慶と牛若丸、五条の橋の対決 (前欄間)

弁慶は生年月日も親の名前もはっきりわかっていません。母親のお腹に十八ヵ月もいたため、生まれたときには、もう髪の毛も長く、歯も生えていたといいます。驚いた父親は「鬼神ではないか。」と、山へ捨てようとしたので父親の妹がひきとって「鬼若」と名付けて育てました。体はたくましく、5才の時には普通の人の12〜3才ぐらいに見えたということです。お寺へ預けられ一生懸命に学問にも励みましたが、やがてたくましい大男に成長するといろいろと乱暴も働くようになりました。

その後、四国などの各地を修業して回って京都へ戻ってきたときのことです。こんなことを考えました。「宝ものというものは何でも千は持つものだ。奥州(今の東北地方)の藤原秀衡(ふじわらひでひら)は、名馬千頭に立派な鎧(よろい)を千も持っているというではないか。よし、わしは太刀を千本集めて宝ものにしてやろう。」

そこで、夜になると京の町へ出て、通る人から太刀を奪いとってはためていき、とうとう九百九十九本になりました。「今夜はとうとう千本め、何とかいい太刀が手に入りますように。」と祈りながら、京都の五条の橋のたもとで待ち構えていました。

ちょうどその時です、黄金づくりの立派な太刀を身につけた可愛らしい少年が笛を吹きながら静かに歩いてきました。「やい、その太刀をよこせ。」喜び勇んだ弁慶が少年の前へとびだすなり大声でどなりました。「そんなにほしけりゃ、腕ずくでとってみよ。」少年はすずしい顔をして答えました。

予想もしなかった返答に、かっと頭へ血ののぼった弁慶は、大長刀(おおなぎなた)を振るって切り掛かりました。少年はひらりと身軽に体をかわすと、橋の欄干に飛び上がりました。「何をこしゃくな。」とさらに切り掛かります。何回やってもそのたびに身をかわされさすがの弁慶も疲れ果ててしまいました。そして、とうとうこの少年に降参をしてしまい、家来になりました。

この少年は、平家との戦いで敗れ、殺された源義朝の子供、鞍馬山で天狗を相手に剣術の稽古をしていた牛若丸でありました。

出典:屋台物語 北の巻 p.15(書き起こし・書き起こし(未校正))

児島高徳(こじまたかのり) (右脇障子)

鎌倉時代、幕府の将軍が力を持って全国を支配していました。時の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は幕府を倒して天皇の手に権力を取り戻そうと考え、計画をたてていました。しかし、これが幕府に知られ、城は攻め落とされ、捕らえられた天皇は隠岐島(おきのしま)へ流されることになりました。(1331年・元弘の乱)

備前の国(今の岡山県)出身の武士「児島高徳」は、隠岐へ流される後醍醐天皇が五百人の幕府の兵に警護され京都を出発したと聞き、途中で何とか天皇を助けだそうと考えました。

まず、播磨の国(今の兵庫県)と備前の国の境、舟坂山の峠で待ち伏せをしていました。ところが、いくら待っても天皇を連れた一行は現われません。一行は山陽道を通らずに山陰道に変更したためです。それを知った高徳は、それでは美作の国(今の岡山県北部)の杉坂で、と急ぎましたが、今度は、もう一行は通りすぎてしまった後でした。 このうえは、自分の気持ちだけでも天皇に伝えたいものだと考えた高徳は、そまつな身なりをし、ただ一人、天皇が泊まっている場所に忍びこみました。 そこの庭にあった桜の大木の幹を削ると、次のような一句を書き記しました。「天莫空勾践時非無范蠡」読み方=天(てん)、勾践(こうせん)を空(むなし)うすること)莫(なか)れ、時に范蠡(はんれい)無きにしもあらず。……昔、中国の越の国の王「勾践」と、呉の国の王「夫差」が戦い勾践は会稽山というところで夫差にかこまれて敗れました。しかし、范蠡という立派な家来の助けによってやがて夫差を討ちやぶり、恥をそそぐことができたという話をうたった詩です。「天よ、勾践のような悲運にあっている天皇を見捨てないで下さい。いまにきっと范蠡のような立派な家来が出てきてあなたを助け出すでしょうから。」と、後醍醐天皇を勇気づける内容です。

次の朝、これを見た人々はこの詩の意味を理解出来ませんでしたが、話を聞いた天皇は意味を理解し、満足そうにほほえんだということです。

出典:屋台物語 北の巻 p.16(書き起こし・書き起こし(未校正))

新田義貞の鎌倉攻め(稲村が崎) (左脇障子)

鎌倉幕府の勢力は、次第に弱まってきていました。

1333年春、京都で足利尊氏が、鎌倉幕府を倒そうと、兵を挙げました。一方、上野の国(いまの群馬県)では、新田義貞も兵を挙げました。義貞は、途中、幕府の軍と各地で激しく戦いながら嵐のように鎌倉を目指して進みました。出発の頃に750騎だった軍勢も、次々に増え20万以上にもなりました。

いよいよ鎌倉へ攻め込もうとしたときのことです。

鎌倉は、東・北・西を険しい山にかこまれ、山の低い所にある切り通しは、幕府の軍で固められています。南は海、海岸沿いに攻めようとしても、「稲村が崎」という所は、波打ちぎわまで険しい崖がせまり、大軍が通ることはできません。その上、海には、多くの船が浮かべられ、海岸を通るものに横から矢を射かけようと待ち構えています。

稲村が崎まで大軍を率いて来た義貞は、進むことも退くことも出来なくなってしまいました。

その時のことです、義貞は馬から下り、かぶとをぬぐとそこへひざまづき、海の神「竜神」にむかって祈り始めました。「私は、天皇のために、忠義を尽くして戦っています。どうぞ、波の逆巻く海の水をずっと向こうまで退け、軍の進む道を開き給え。」と祈りつつ、自分の着けていた黄金づくりの太刀を、海中へと投げ入れました。すると、不思議なことに、潮の干る時刻でもないのに、見る見るうちに潮がはるか向こうまで退いて、敵の乗っている船も岸からずっと遠くへ押し流されてしまいました。神様も味方してくれると、元気いっぱいの大軍は、潮の退いた海岸を鎌倉へ攻め込み、ついに鎌倉幕府をほろぼすことができました。これは1333年5月21日のことでした。

出典:屋台物語 北の巻 p.17(書き起こし・書き起こし(未校正))

川中島(かわなかじま)の合戦 (右欄間)

戦国時代の武将 越後(今の新潟県)の「上杉謙信(うえすぎけんしん)」と、甲斐(今の山梨県)の「武田信玄(たけだしんげん)」が千曲川の中州「川中島」で、天文22年から・永禄7年にかけて、5度にわたって戦いをしました。このうち、永禄4年が最も激しい戦いであったということから、これを通常「川中島の合戦」と呼んでいます。

武田信玄は、天文10年(1541年)自分の父親武田信虎を追い払って、甲斐の国を支配、さらに信濃(今の長野県)各地に戦いを繰り広げました。ここで、南にむかって勢力をのばそうとした上杉謙信と対決することになります。

9月9日、信玄は作戦会議で、その夜のうちに1万5千の一隊を西の方の西条山にむかわせ、夜が明けるとともに、そこにいる謙信を攻め、一方退却してくる謙信の軍を、残りの1万余の兵をひきいた信玄が川中島で挟み撃ちにするという山本勘介の作戦を取り入れることに決定しました。作戦はすぐに実行に移され、その夜中に二手に別れて移動をしました。

一方、上杉謙信は、この作戦を予想し、雨の降るその夜のうちに、信玄が来ると読んだ川中島へ全軍を移動させて待ち構えていました。

次の朝、信玄軍は霧が晴れると目の前に待ち構えている謙信の大軍を見て驚きました。謙信軍は決死の構えです。あわてた信玄はいそいで軍の配置を変更し始めました。そこへ、馬に乗って指図する謙信の号令とともに大軍が攻め込んできました。

上杉謙信は馬に乗って三尺以上の大太刀を振るい、さえぎる敵を切り倒し切り倒し信玄をさがして突き進みました。そのうちに、腰掛けに腰かけてさかんに指図をしている武者を見付け、馬の上から三太刀切り付けました。その武者は、一回目は立ち上がりながら持っていた軍配団扇(ぐんばいうちわ)で防ぎましたが、その柄が折れてしまいました。二回目は籠手に当たり、三回目は肩先を切り付けられました。その時、突然後から槍で謙信めがけて突きかかった者がいました。槍ははずれて馬にあたったので、驚いて棒立ちになった馬はその場から謙信を乗せたまま走り去りました。切り付けられた信玄は後になって、この時の相手が上杉謙信であったことを知ったといいます。 戦いは上杉謙信軍が優勢に進められましたが、もぬけの空の西条山に向った1万5千の兵が帰ってくると、武田信玄軍がもり返し、ついに謙信を追い返しました。

※ お手玉をする時の歌「西条山(さいじょうざん)は霧深し、千曲(ちくま)の川は・・・」は、この戦いの時の様子を歌ったものです。

※ その後、武田信玄の軍は、南へ軍を進め、1572年には森町にあった天方城へも攻め込んで来ます。

出典:屋台物語 北の巻 p.18-19(書き起こし・書き起こし(未校正))

源義家、前九年の役に出陣 (左欄間)

平安時代後期、このころ東北地方は安倍氏一族が次第に勢力を強め朝廷の命令も聞かず一帯を支配していました。これを押さえるために、朝廷は数千の兵を率いた藤原登任(ふじわらのりとう)を向わせたがかえって追い払われてしまいました。

そこで今度は、関東地方に大勢の家来を持つ「源頼義」にこの役を命じました。

この時、頼義についていったのがその子「源義家」です。

安倍頼時は、頼義の名望を恐れて、戦わずに従うことにしました。しかし、頼義の任期5年が切れて、都へ帰ろうとしたとき、ちょっとしたことから頼義と安倍氏との間で、ついに戦いが始まりました。(「前九年の役」)

国内は凶作で兵達の食料が乏しくなる一方、安倍一族は、ますます団結を強めてたち向ってきます。

頼義軍は吹雪の中の戦いで、食料もなく、人馬ともに疲れはてて死者数百人、残りはわずか六騎になってしまいました。これを見た安倍氏の兵は頼義・義家等をとり囲み、雨のように矢を射かけてきます。この時、大活躍をして囲みを破って味方を助けたのが頼義の子、その時19歳の「源義家」でした。

馬に乗って安倍氏の兵の中をすばやく駆けめぐり、弓を引き絞っては射続けました。一本として当たらないものはなく、当たった者は必ず倒れました。頼義の馬が射たれて倒れると家来の景通が馬を差し出し、義家の馬がやられると今度は家来の則明が敵から奪った馬を渡すというような大変な激戦です。結局は、義家の弓矢に恐れた安倍氏の兵が囲みを解いたので危うく助かることができました。戦いはこの後1062年、出羽の国(今の山形・秋田県)の清原氏が、一万の兵を率いて味方に加わったので、ついに安倍氏一族を倒すことができました。義家は、7歳の時石清水八幡宮の宝前で元服したことから「八幡太郎」と号し「八幡太郎義家」とも呼ばれました。

出典:屋台物語 北の巻 p.19(書き起こし・書き起こし(未校正))

楠木正行(くすのきまさつら) (後欄間)

150年間続いた鎌倉幕府が倒され、天皇の政治に変わりました。しかし、天皇の味方をして戦った武士たちの期待を裏切った政治をしたため、足利尊氏を中心にした武士が天皇方に反抗し、戦になりました。

後醍醐天皇は楠木正成(くすのきまさしげ)を呼び、「すぐに兵庫へ行き、尊氏と戦っている義貞に協力をするように。」といいました。これに対して正成は、「今度の敵は、新手ばかりの大軍です。味方は疲れきって、まともに戦ったのでは勝ち目はありません。いったん比叡山に退き、敵を都におびきよせた後に兵糧の入手を断ち、前後から挟み撃ちにしましょう。」という作戦の名人正成の考えも、宰相の清忠だけが一人断固反対したために取り入れられませんでした。そこで、正成は勝つ見込みのない戦ではあっても、天皇の命令に従い立派に戦うしかないと、死を覚悟し、弟の正季をはじめ五百の味方を率いて出発します。

途中、桜井という所で、自分の子供の正行に、天皇からいただいた菊水の刀を形見として与え「生き残って天皇のために、尽くしなさい」と最後の別れをし、むりやり帰らせ湊川の合戦へとむかいます。

やがて、父親正成が討たれたと伝えられると、正行は父の形見の刀を取出し切腹しようとしました。これを見た母親は、刀を持つ手をしっかりと押え「何をするのですか。あなたは父親の遺言を忘れたのですか。早く成人し、天皇のために命を捨てて戦ってこそ親孝行というものではありませんか。こんなところで命を落とすのは、まったくの犬死で、親不孝というものです。」と泣き泣き論しました。論された正行は自害を思い止まり、その後、親の後を継ぎ、天皇の味方として命をかけて戦いました。父の楠木正成は「楠公」、その子、正行は「小楠公」と称されています。

出典:屋台物語 北の巻 p.20(書き起こし・書き起こし(未校正))

仙人(張果老仙人・陳南仙人) (御簾脇、左右)

人間の世界を離れ、山中等に住み、穀物を避けて、不老不死の法を修め神変自在の術を身につけた人のことで「神仙」とも言われます。超能力を持ち、「不老長寿」ということで、人々の長生きを願う、おめでたい絵としてよく描かれます。

「張果老仙人」(左 御簾脇)

唐の時代の仙人の一人で、常に白い馬にまたがり、一日に数万里を動きまわる事が出来たといいます。休息するときは、白馬を小さくちぢめて瓢箪の中へ納め、腰にぶらさげておき、必要になったときは瓢箪を逆さにします。すると、瓢箪から出てきた水が馬に変わり、それにまたがってまた出掛けたということです。

休む時には、駒を紙のように折畳み、絹張りの小さな箱に入れ、乗るときはこれに水を吹き掛けると、またもとの駒になって乗ることが出来た、と書いた本もあります。

いろいろと工夫と努力を重ねれば、思わぬところで思わぬいい結果が生まれる、という意味の「瓢箪から駒が出る」という諺はここから出た、という説もあります。

「陳南仙人(ちんなんせんにん)」(右 御簾脇)

持っている鉄の器から竜を呼びだして、これに指図して天に昇らせ、雨を自由に降らせることができる力を持っているという仙人だそうです。

出典:屋台物語 北の巻 p.21(書き起こし・書き起こし(未校正))

十二支 (支輪)

(くわしくはP.100)

出典:屋台物語 北の巻 p.22(書き起こし・書き起こし(未校正))