屋台に刻まれた物語English

題材からめぐる

仙人

本の参照頁:森 p.83・92-96・101

仙人(支輪)①〜④

人間の世界を離れ、山中等に住み、穀物を避けて、不老不死の法を修め神変自在の術を身につけた人のことで「神仙」とも言われます。超能力を持ち、「不老長寿」ということで、人々の長生きを願う、おめでたい絵として描かれています。

②「東方朔仙人」(とうぼうさく)

中国、前漢の学者、呉中に住み数十年手習いの師匠をしていましたが、武帝の時、政治上の意見を述べ、その役人となったといわれます。

その頃の人々は彼のことを聖人だというものもあれば凡人だというものもいたそうです。

いろいろと奇行が多く、忠言も言えば冗談も言い、その真意を理解できる人はなかったそうです。

伝説では、方士(仙人の術を身につけた人)として知られ、西王母という仙人の三千年に一度しか実がならないという桃を盗食して、死ぬことができず、いつまでも生き続けたということです。

④「張果老仙人」(ちょうかろう)

唐の時代の仙人の一人で、常に白い馬に跨がり、一日に数万里を動きまわる事が出来たといいます。

休息するときは、白馬を小さくちぢめて瓢箪の中へ納め、腰にぶらさげておき、必要になったときは瓢箪を逆さにします。すると、瓢箪から出てきた水が馬に変わり、それに跨がってまた出掛けたということです。

いろいろと工夫や努力を重ねれば、思わぬところで思わぬいい結果が生まれる、という意味の「瓢箪から駒が出た」という諺はここから出た、という説もあります。

この解説が載っている箇所:藤雲社(栄町) 森の巻 p.92

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

⑤子英仙人・⑥黄帝仙人

⑤「子英仙人」(しえい)

子英は叙郷の人で、水に潜り魚を捕える事が得意でした。ある時、赤い鯉を捕まえて、その赤い色の見事なのが気に入り、米粒を餌にして池で飼っていました。そのうちに、どんどん大きくなり、角が生え、やがて翼も生えてきました。子英が鯉に向かって礼をすると、鯉が「あなたを、お迎えに参りました。私の背中にお乗りください、ご一緒に天に昇りましょう。」といいました。その時、急に降ってきた大雨の中、子英は鯉の背に乗って空高く昇っていったということです。その後も、ときどき帰ってきて家族にあって食事をし、迎えに来た鯉に乗って帰っていったということです。

⑥「黄帝仙人」(こうてい)

黄帝は、中国古代の伝説上の王様で、名は「軒轅」と言い、舟、竜、暦、算数、音楽、楽器、などいろいろなものを発明したともいわれています。仙人の術を身につけた後、王様の位を捨て、いろいろな鬼神を叱咤激励し、家来にしては働かせていたそうです。

彼が首山で採れた銅を使って「鼎(かなえ=三本の足がついた器)」を作った時、一匹の龍が天から胡髯(こぜん=あごの下にたれている肉、あごひげ)を垂らして 黄帝を迎えに降りてきました。黄帝が、龍に乗って天に昇る時、大勢の家来がなんとかしてついて行こうと龍の胡髯にしがみついたり、黄帝の弓にしがみついたりしました。ところが、胡髯が抜け、弓も落ちてしまったのでついていくことができません、家来たちは黄帝の昇っていった方向に向かい弓を抱いて泣き叫んだそうです。そこで後に、その場所を「鼎湖(ていこ)」、その弓を烏号(うごう)と名付けたということです。

この解説が載っている箇所:藤雲社(栄町) 森の巻 p.93

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

⑦菊慈童仙人・⑧西王母仙人

⑦「菊慈童仙人」(きくじどう)

菊慈童とは、周の穆王のそばに仕える子供の名前だそうです。ある時、罰を受け、南陽郡の、れき県に流されました。そこの土地で菊の露を飲んで不老不死になる事が出来、いつまでも歳をとることもなく若若しいままであったということです。

能の中に「枕慈童」という話があります。役人が王様の命令で、れき県山のふもとに流れる霊水の源を調べるために山奥へ入ったところ、そこで七百年も前に流されたという菊慈童に会い、不老長寿の薬「菊水」をもらう、というあらすじです。

⑧「西王母仙人」(せいおうぼ)

男の最高の仙人「東王父仙人」に対し、崑崙山に住む絶世の美女「西王母仙人」は女の仙人の総取り締まりといえます。ですから、女の仙人はすべて西王母の指図に従うことになります。

彼女は、仙人の住む場所でも最高の場所に住み広大な宮殿の庭には、白玉の木や不老長生の薬の木が林のように植えられていたということです。

周の穆王が西の方の国々を巡視して、崑崙山の近くへやってきた時、西王母は、王のために宴会を開き、王の長寿を祈り、不老不死の道を得たければ再びここを訪ねてきなさいという意味の詩を贈りました。しかし、彼は仕事が忙しくついに再び訪れることはできなかったということです。

また、前漢の武帝も、不老長生の道を得ようと強く願っているのを知った西王母は武帝を訪ねて、三千年に一度しかならないという桃を七個出しその中の四個を与えました。「おまえは、品性が下労で、殺生を好み、ぜいたくをしている。長生きしたければそれらを一切やめてから不老長生の薬を飲まなければならない。」と教えました。しかし、武帝がそれを守ろうとしなかったので、西王母は再び訪ねてはこなかったし、長生きも出来なかったということです。

この解説が載っている箇所:藤雲社(栄町) 森の巻 p.94

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

⑨王子喬仙人・⑩蕭史仙人

⑨「王子喬仙人」(おうしきょう)

王子喬というのは、周の霊王の太子「晋」のことで、彼はたいへん上手に「笙の笛」を吹くことがでできたそうです。その音色は、まるで鳳凰の鳴く声にそっくりの何とも言えない良い音色であったということです。

ある時、浮丘公という仙人と一緒に山の中に登っていってしまいました。その後、三十年あまりたって山の中を探すと、一人の友達の前に姿を現わし「七月七日に、こう氏山の頂上で私を待っているように、家族に伝えてほしい」と言って消えてしまいました。

その日に、皆が待っていると、白い鶴に乗ってやってきて山の頂上に止まりました。遠くからもはっきり見えるのですが、いくら歩いてもそこまでは行くことができません。しばらくすると、人々に手をあげて別れを告げ、また、白い鶴に乗ってどこへともなく飛んでいってしまったといわれています。

⑩「蕭史仙人」(しょうし)

蕭史は、秦の穆公の頃の人で、簫(笙)を吹くことがとても上手で、孔雀や白鶴を庭に呼び寄せる事が出来たという事です。穆公には、弄玉という姫があってこれがお気に召したので、穆公はこの二人を結婚させてやりました。

蕭史は、毎日、弄玉に鳳鳴の調べを教え続けました。数年間もすると鳳凰の声そっくりに吹けるようになりました。二人で簫(笙)を吹いていると、鳳凰がどこからか飛んできて屋根の上にとまりました。穆公が、二人のために鳳台を建ててやると、夫婦してその上に住み、数年間もそこから下りてはきませんでした。 ある日、二人は飛んできた鳳凰に乗ってどこへともなく飛び去っていったということです。

この解説が載っている箇所:藤雲社(栄町) 森の巻 p.94-95

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

⑪呂尚仙人・⑫桂父仙人

⑪「呂尚仙人」(りょしょう)(太公望の本名)

呂尚は、生れながらにして、未来を予見したり、生死を予見したりすることが出来たと言われています。殷の紂王の悪い政治から逃れて、隠れ住んでいるときのことです。釣りが好きでよく釣りをしていましたが、三年間一匹の獲物もかかりません。まわりの人々が「もう釣りはお止めなさい。」と忠告すると、「お前たちの知ったことではない。」と云って、また続けます。妻も呆れ果てて実家へ帰ってしまいました。

そのうちに、大きな鯉を釣り上げ、その腹の中から戦の仕方を書いた「兵法書」を手に入れることができました。

周の文王が聖人にめぐりあう夢を見た後、呂尚のことを聞き「私の先祖の太公が長い間望んでいたのはあなたに違いない」と云って車に乗せて連れ帰りました(太公望という呼び名はここから出た)。文王とその子の武王は、政治や戦を援けてくれる彼を先生として敬ったということです。

この時、別れていった妻が復縁を願ってやってきました。呂尚は、妻が見ている前で、盆に入れた水を地面にこぼし「こぼした水を、この盆に入れて見ろ。」と言いました。妻が困っていると「いったんこぼした水は再びもとには戻らない」といって復縁をことわったということです。(諺「覆水盆に返らず」のいわれ)

その後、二百歳ちかく迄生き、自分で死を予告して亡くなったといわれています。

⑫「桂父仙人」(けいほ)

桂父(けいほ)は、象林の人で、色が黒いかと思えば、時には白くなり、また時には黄色に、時には赤くもなったといわれています。この様子を見た南海地方の人々は彼を敬ってていねいに扱ったということです。

桂父は、つねに肉桂(よい香りのする木=ニッキ)と、ひまわりとを服用し、それを亀の脳味噌で和えて用いました。その「丸薬」千個を作るのに、肉桂十斤を使ったそうです。

桂父は、代々にわたって世の中に姿を見せていたということで、いまも荊州の南部では、桂父の作った「桂丸」という丸薬が見られるということです。

この解説が載っている箇所:藤雲社(栄町) 森の巻 p.95-96

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

がま仙人/鉄拐仙人

がま仙人(御廉脇右)

中国の仙人で、「がま」を使って妖術を使ったといわれます。また、がま仙人は姿が「ひきがえる」に似ていたため、その姿に驚いて逃げようとする「元」を呼び止めて、一粒の薬を与えました。その薬を飲んだ「元」は百歳まで生き続ける事ができたと伝えられています。

三国時代の呉の「葛玄」をさすとか、五代後梁の「劉海せん」という者のことであるだとか言われています。

鉄拐仙人(御廉脇左)

中国の隋の時代にいたといわれる仙人で、姓は李、名は洪水、鉄拐は小字。

この仙人は、息を吐き出すと自分の魂を空中に吐き出すことができ、どんな遠い所でも思いのまま飛んで行くことができたと言います。

ある時、遠くにいる知人を訪ねる約束があったので、骸を残して、後のことを弟子に頼んで、魂だけで出かけていきました。ところが、帰ってくる約束の日をまちがえた弟子が、一日早く骸を焼いてしまいました。次の日、鉄拐の魂が帰ってきましたが入るべき身体がありません。そこで仕方なく、道端で飢死していた乞食の屍に乗りうつりました。それ以来、彼はびっこで、ボロを着た醜い乞食の姿で暮らしかなかったと言うことです。

この解説が載っている箇所:睦栄社(戸綿) 森の巻 p.83

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

琴高仙人

中国、周代の仙人。今の山西省のあたりの人で、琴の名人として知られ、宋の康王の役人を務めていました。今の河北省や河南省のあたりを二百年以上にわたって行ったり来たりしていたといいます。役人を辞めてからは、弟子に仙人の術を教えていました。 その後、弟子に「涿水という川に潜って竜の子を捕まえてくるから、皆、身を清めて、川のほとりにほこらを建て祀っているように。」と言い残して川に潜っていきました。弟子たちが、約束の日に、言われたとおりにして待っていると、琴高は赤い鯉に乗って現われほこらの中に座りました。話を聞いて大勢の人が見物にやって来ました。彼は一ヵ月程そこに居たけれど再び水の中に入っていったといわれています。

琴高が葛玄という仙人を訪ねて行く時に、鯉に乗って水中を行きました。 二人で、おおいに飲み、酔い潰れ、朝になって見るとその鯉は、もう、浜辺で石になってしまっていました。そこで葛玄は、遠くから来た琴高のために、一羽の鶴を贈ったので、琴高は今度は鶴に乗って帰っていった、という話も伝わっているそうです。

この解説が載っている箇所:桑水社(下宿) 森の巻 p.101

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

黄安仙人

どこへ出掛けて行くにも、自家用車代わりに、いつでも三尺(約1メートル)ほどの亀に乗って出掛けて行ったと言う事です。

ある人が「あなたは、何年ぐらいその亀の背に乗っているのですか。」と聞くと、「この亀は三千年に一度だけ頭を出すが、私がこの亀に乗ってから五回ほど頭を出したよ。」と答えたということです。

一万年以上もの寿命を保ったという不老長寿の仙人であります。

この解説が載っている箇所:桑水社(下宿) 森の巻 p.101-102

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

龍仙人

この仙人の名前がはっきりしません。龍と関係の深い仙人は、大勢います。「馬師皇」または、「師門あるいは孔甲」ではないかと仮定して書いてみました。

馬師皇……黄帝の頃の馬の医者で、どんな馬の病気でもたちどころに治してしまうと言われていました。

ある日、一匹の龍が空から降りてきて師皇にむかって耳を垂れ口を開けました。「この龍は病気で、私が治せることを知ってやってきたにちがいない」そう思った師皇は、唇の下に鍼をさしてやり、煎じ薬を口のなかへ入れて飲ませてやりました。

病気が治った龍は、その後も病気になるたびに波の中から出てきては治療してもらいました。ところがある朝、やってきた龍は、師皇を背中に乗せると、どこともなく姿を消してしまったということです。

師門あるいは孔甲……師門は桃や李の花びらを食用にしていました。ある時、夏の国の孔甲の龍の飼育係に雇われました。しかし、孔甲は、自分の思う通りに龍が使えないので、師門を殺して外に埋めてしまいました。ある朝、ものすごい風雨が起こりこれが止んだときには、山の樹木はことごとく焼け焦げていました。孔甲は身を清めて祈りましたが、家に帰る途中で死んでしまったということです。

(この彫刻の下絵だけは、当時仲横町在住の原氏のもの)

この解説が載っている箇所:沿海社(川原町) 森の巻 p.107

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

傘乗り仙人

この仙人も、名前や、いわれがはっきりわかりません。葛飾北斎の描いた絵の中に傘に乗った仙人があり、「傘風子(さんぶうし)」と記入されています。たぶん、この仙人の呼び名であると思われますが、それ以外はまったくわかりません。(ご存じの方はお教えください)

この解説が載っている箇所:沿海社(川原町) 森の巻 p.108

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

仙人(張果老仙人・陳南仙人)

人間の世界を離れ、山中等に住み、穀物を避けて、不老不死の法を修め神変自在の術を身につけた人のことで「神仙」とも言われます。超能力を持ち、「不老長寿」ということで、人々の長生きを願う、おめでたい絵としてよく描かれます。

「張果老仙人」(左 御簾脇)

唐の時代の仙人の一人で、常に白い馬にまたがり、一日に数万里を動きまわる事が出来たといいます。休息するときは、白馬を小さくちぢめて瓢箪の中へ納め、腰にぶらさげておき、必要になったときは瓢箪を逆さにします。すると、瓢箪から出てきた水が馬に変わり、それにまたがってまた出掛けたということです。

休む時には、駒を紙のように折畳み、絹張りの小さな箱に入れ、乗るときはこれに水を吹き掛けると、またもとの駒になって乗ることが出来た、と書いた本もあります。

いろいろと工夫と努力を重ねれば、思わぬところで思わぬいい結果が生まれる、という意味の「瓢箪から駒が出る」という諺はここから出た、という説もあります。

「陳南仙人(ちんなんせんにん)」(右 御簾脇)

持っている鉄の器から竜を呼びだして、これに指図して天に昇らせ、雨を自由に降らせることができる力を持っているという仙人だそうです。

この解説が載っている箇所:八幡社(大鳥居) 北の巻 p.21

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

費長房仙人(ひちょうぼうせんにん)

後漢の時代(25〜220年)河南省汝南県のある町に「壺公」(ここう)という薬売りがやってきて、街頭で薬を売り始めました。

よく効くことと、安いこと、さらに薬を飲んだ後の病の変化や治る日数まで説明してくれ、すべてその言葉どおりになることで、商売は大繁盛、毎日たくさんの儲けがありました。しかし壺公は、儲けをすべて貧乏な人たちに分け与えてしまいます。

ある日、費長房が、高い建物の見張り台の上から壺公の様子を何気なく見ていました。すると商売を終えた壺公が、そっと薬の壺の中に飛び込むのを見てしまいました。

壺公が普通の人間ではないことに気づいた長房は、毎日、壺公の座る辺りの地面を掃除し、ご馳走を差し出すようにしました。壺公に無視されても無視されても、長房は毎日それを続けました。壺公は長房の誠実さを認めて「日が暮れ、誰もいなくなったらここへ来なさい。」と言いました。そこで、その通りやってくると、「私について来るように。」と言って壺公が壺に飛び込みました。長房も思い切って飛び込むと、そこには仙人の住む優雅な雰囲気の街が広がっていました。「私は仙人だ、このことは誰にも言ってはいけないぞ。」そう言われて長房は帰ってきました。

しばらくたって長房の家に壺公がやってきて言いました。

「お前は私についてきて、修業をする気はあるか。」「もちろんありますが、家族に知られずに出て行きたいのです。」「家族には、病気になったと言って、この竹をベッドにおいて出てきなさい。」言われたとおりにすると、家族は長房がベッドで死んでいるのを発見し、ていねいに埋葬しました。 いよいよ修業が始まりました。長房は虎の群れのなかに置き去りにされました。何匹も牙をむいて襲いかかろうとしますが、必死に堪えました。今度は、狭い石の部屋の中に閉じこめられました。天井には大きな石が縄で吊されています。今にも頭の上に落ちてきそうです。たくさんの蛇が現われ縄を噛み切ろうとします。この時も恐ろしさに耐える事が出来ました。次には、壺公が現われ「糞尿を食え」と命令しました。見ると、ひどい悪臭がして、しかも蛆もわいています。どうしてもこれだけは出来ませんでした。

「お前は、天界へ昇るのは無理だ、しかし地上の主(地上にだけ住む仙人)にはしてやろう。この護符(お守り札)を身につけていれば、いろいろな鬼神を自由に指図できるし、鬼神を呼び出し、病気をなおしたり、災いを鎮めることも出来る。」といって護符1巻を渡してくれました。 壺公に渡された杖に乗って長房は家に帰ってきました。みんなは、死んだはずの長房が帰ってきたのでびっくりし、恐れました。長房がいくら説明しても納得しません。

しかし棺桶を開けると青竹が出てきたのでやっと納得しました。暦で確かめると1年間も過ぎていたのです。

それから、長房は護符を使って人々の病をなおしたり妖怪を追い払ったり、とじこめておいた竜神を解き放して雨を降らせ、旱魃から人々を救ったりしたということです。

この解説が載っている箇所:西宮社(中村) 北の巻 p.86-87

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

鉄拐仙人(てっかいせんにん)

隋の時代にいたといわれる仙人で、姓は李、名は洪水、鉄拐は小字。この仙人は、息を吐き出すとき、自分の魂も空中に吐き出すことができ、どんな遠い所でも思いのまま飛んで行くことができたと言います。

ある時、遠くにいる知人を訪ねる約束があったので、骸を残して、後のことを弟子に頼んで、魂だけで出かけていきました。ところが、帰ってくる約束の日をまちがえた弟子が、一日早く骸を焼いてしまいました。次の日、鉄拐の魂が帰ってきましたが入るべき身体がありません。そこで仕方なく、道端で飢死していた乞食の屍に乗りうつりました。それ以来、彼はびっこで、ボロを着た醜い乞食の姿で暮らしかなかったということです。

この解説が載っている箇所:西宮社(中村) 北の巻 p.87

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

菊慈童仙人

菊慈童とは、周の穆王のそばに仕える子供の名前だそうです。ある時、罰を受け、南陽郡の、れき県という所に流されました。そこの土地で菊の露を飲んで不老不死になる事が出来、いつまでも歳をとることもなく若若しいままであったということです。

能の中に、この話をもとにした「枕慈童」という話があります。

役人が王さまの命令で、れき県の山のふもとを流れる霊水の源を調べるために山奥へ入ったところ、そこへ七百年も前にそこに流されたという菊慈童が現われ、役人は不老長寿の薬「菊水」をさずけられるというあらすじです。

この解説が載っている箇所:共進社(乙丸) 北の巻 p.99

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

久米仙人(くめのせんにん)

昔、大和の国(今の奈良県)に竜門寺という寺がありました。その寺には、久米という人がこもって仙人になる修業をしていましたが、やがて空を飛ぶ術を身につけ、あちらこちら自由に空を飛び回ってはいました。

ある日のこと、吉野川の上空を飛んでいるときのことです。ずっと下の方を見ると、吉野川の岸辺で洗濯をしている若い女の人を見つけました。その頃の洗濯は、水のなかに浸けた着物を足で踏んで洗うやり方です。ぬれないように自分の着ている着物の裾をまくりあげて、足踏み洗濯をしている女の人の白い脛に見とれた仙人は、そのとたん、仙人の神通力を失ってその女のそばに落ちてしまいました。それから、普通の人にもどった久米は、その時の女の人を妻にして一緒に暮らしていました。

その頃、時の天皇が都を造ることになり、人々に人夫を割り当て、働かせることになりました。大勢の人々とともに、久米もかりだされました。そのうち、他の人夫たちが久米のことを「仙人仙人」と呼ぶので、役人がその訳を聞き、冗談に「仙人の修業をしたというなら、都を造る材木を山から空中を飛ばして都に運んでみろ。」といいました。

そこで、久米は身を清め、道場にこもって七日七夜祈り続けました。八日目の朝、にわかに闇夜のように暗くなったかと思うと激しく雷が鳴り雨が降りだしました。それがぱたっとやんだとたん、青空が広がり、その青空のなか、たくさんの材木が山から都を造る場所に向かって飛んでいくのが見られました。

これを聞いた天皇は、ほうびとして免田(税を出さなくてもいい田)三十町を久米に与えました。

久米は、その土地に寺を建て、その寺が今も残っている「久米寺」であるということです。

この解説が載っている箇所:北陽社(北戸綿) 南の巻 p.77-78

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

張果老仙人(ちょうかろうせんにん)

「張果老」は唐の時代の仙人の一人で、常に白い馬にまたがり、一日に数万里を動きまわる事が出来たといいます。休息するときは、白馬を小さくちぢめて瓢箪の中へ納め、腰にぶらさげておき、必要になったときは瓢箪を逆さにします。すると、瓢箪から出てきた水が馬に変わり、それにまたがって出掛けたということです。

休む時には、駒を紙のように折畳み、絹張りの小さな箱に入れ、乗るときはこれに水を吹き掛けると、またもとの駒になって乗ることが出来た、と書いた本もあります。

いろいろと工夫と努力を重ねれば、思わぬところで思わぬいい結果が生まれる、という意味の「瓢箪から駒が出る」という諺はここから出た、という説もあります。

この解説が載っている箇所:梶盛社(梶ケ谷) 南の巻 p.107

書き起こし・書き起こし(未校正)。文章は各箇所でほぼ同じ内容。細かな表記の違いは各屋台のページで確認できます。

この題材の彫刻(10台・28点)

睦栄社 戸綿

藤雲社 栄町

桑水社 下宿

沿海社 川原町

八幡社 大鳥居

西宮社 中村

共進社 乙丸

北陽社 北戸綿

梶盛社 梶ケ谷

神明社 中川上