屋台に刻まれた物語English

屋台をめぐる / 森の祭り(旧森町)

藤雲社 栄町

藤雲社(栄町)の屋台
本のスキャン(仮) 森の祭り(森の巻) 扉 p.89(1991年刊)

基本情報

読みとううんしゃ(さかえまち)
落成年昭和62年10月
社名の由来栄町にある金守神社には、樹齢四百年以上の楠木に巻きつく「十七夜の大藤」がある。この藤の、龍が雲に昇る姿のように躍進を願って命名した。
工匠山本庄平、和夫父子(栄町)
彫刻志村孝士(二代目流張=福井県三国町)
塗装荻村浪吉父子(長野県木曽郡)
車輪村松利雄(仲横町)
御廉の社名揮毫杭迫柏樹(京都市=本町出身)
備考平成元年、下宿(桑水社)より、分離独立。金具飾りは、村井金具店(愛知県刈谷市)。浜縁下平面に「天女」「鳳凰」の蒔絵(下絵は三浦末)、地覆四隅には貝入り蒔絵で「花鳥」「松竹梅」等が描かれている等他社にない特長があり、優雅、豪華な屋台は、町内自慢の種である。

出典:森の祭り(森の巻) p.90

この屋台の写真(2枚)

彫刻

七福神⑤毘沙門天・⑥弁財天 (御簾脇、右・左/正面欄間)

七福神 ⑤「毘沙門天」(ビシャモンテン)(御廉脇右)

インドで「須弥山(しゅみせん)」(仏教の中で、世界の中心にそびえたつという山のこと、または寺院で仏像を安置する壇)を守る四天王の一人で、別の名を「多聞天(たもんてん)」と言い北面の守護神とされています。

姿は、左手に仏塔を持ち、右手には鉾を持って邪鬼を踏み付けています。このように仏法を守る武神として、初めは国を守るためや、戦に勝つために祀られていましたが、次第に、福徳増進の目的でも祀られるようになり、七福神の中に組み入れられるようになったと言われています。

七福神 ⑥「弁財天(ベンザイテン)」(御廉脇左)

七福神の紅一点、弁財天は、琵琶を弾く美人の姿をしています。この神様は、もとは、インドのインダス川を神様として表したものだったそうです。そのせいか、日本でも水辺の近くの「ほこら」に祀られていることが多いし、水辺に住む蛇と結び付けられたりもしています。

ぼん語「サラスヴァティ」が、妙音天妙音楽天と訳され、それが、大弁財天、大弁財天女などと呼ばれ、さらに、略して「弁天」、俗に、「弁財天」とも呼ばれるようになったと言われています。

この神は、人に幸福や知恵を与え、長生きや財宝を授けてくれ、天災地変を防ぎ、戦では勝利をもたらしてくれる仏神であり、さらに、人の汚れを払い、富貴名誉・食物・勇気・子孫繁栄だけでなく学問や技芸・雄弁をも守ってくれると言う結構ずくめの神として信仰されているようです。 また、「弁財天」は、ぼん天の妻と言われたり、日本の神話に出てくる宗像三神の一人、市杵島媛命と結びつけたりもすると言う事です。(七福神についてはP50を)

出典:森の祭り(森の巻) p.91(書き起こし・書き起こし(未校正))

仙人(支輪)①〜④ (支輪)

人間の世界を離れ、山中等に住み、穀物を避けて、不老不死の法を修め神変自在の術を身につけた人のことで「神仙」とも言われます。超能力を持ち、「不老長寿」ということで、人々の長生きを願う、おめでたい絵として描かれています。

②「東方朔仙人」(とうぼうさく)

中国、前漢の学者、呉中に住み数十年手習いの師匠をしていましたが、武帝の時、政治上の意見を述べ、その役人となったといわれます。

その頃の人々は彼のことを聖人だというものもあれば凡人だというものもいたそうです。

いろいろと奇行が多く、忠言も言えば冗談も言い、その真意を理解できる人はなかったそうです。

伝説では、方士(仙人の術を身につけた人)として知られ、西王母という仙人の三千年に一度しか実がならないという桃を盗食して、死ぬことができず、いつまでも生き続けたということです。

④「張果老仙人」(ちょうかろう)

唐の時代の仙人の一人で、常に白い馬に跨がり、一日に数万里を動きまわる事が出来たといいます。

休息するときは、白馬を小さくちぢめて瓢箪の中へ納め、腰にぶらさげておき、必要になったときは瓢箪を逆さにします。すると、瓢箪から出てきた水が馬に変わり、それに跨がってまた出掛けたということです。

いろいろと工夫や努力を重ねれば、思わぬところで思わぬいい結果が生まれる、という意味の「瓢箪から駒が出た」という諺はここから出た、という説もあります。

出典:森の祭り(森の巻) p.92(書き起こし・書き起こし(未校正))

⑤子英仙人・⑥黄帝仙人 (支輪)

⑤「子英仙人」(しえい)

子英は叙郷の人で、水に潜り魚を捕える事が得意でした。ある時、赤い鯉を捕まえて、その赤い色の見事なのが気に入り、米粒を餌にして池で飼っていました。そのうちに、どんどん大きくなり、角が生え、やがて翼も生えてきました。子英が鯉に向かって礼をすると、鯉が「あなたを、お迎えに参りました。私の背中にお乗りください、ご一緒に天に昇りましょう。」といいました。その時、急に降ってきた大雨の中、子英は鯉の背に乗って空高く昇っていったということです。その後も、ときどき帰ってきて家族にあって食事をし、迎えに来た鯉に乗って帰っていったということです。

⑥「黄帝仙人」(こうてい)

黄帝は、中国古代の伝説上の王様で、名は「軒轅」と言い、舟、竜、暦、算数、音楽、楽器、などいろいろなものを発明したともいわれています。仙人の術を身につけた後、王様の位を捨て、いろいろな鬼神を叱咤激励し、家来にしては働かせていたそうです。

彼が首山で採れた銅を使って「鼎(かなえ=三本の足がついた器)」を作った時、一匹の龍が天から胡髯(こぜん=あごの下にたれている肉、あごひげ)を垂らして 黄帝を迎えに降りてきました。黄帝が、龍に乗って天に昇る時、大勢の家来がなんとかしてついて行こうと龍の胡髯にしがみついたり、黄帝の弓にしがみついたりしました。ところが、胡髯が抜け、弓も落ちてしまったのでついていくことができません、家来たちは黄帝の昇っていった方向に向かい弓を抱いて泣き叫んだそうです。そこで後に、その場所を「鼎湖(ていこ)」、その弓を烏号(うごう)と名付けたということです。

出典:森の祭り(森の巻) p.93(書き起こし・書き起こし(未校正))

⑦菊慈童仙人・⑧西王母仙人 (支輪)

⑦「菊慈童仙人」(きくじどう)

菊慈童とは、周の穆王のそばに仕える子供の名前だそうです。ある時、罰を受け、南陽郡の、れき県に流されました。そこの土地で菊の露を飲んで不老不死になる事が出来、いつまでも歳をとることもなく若若しいままであったということです。

能の中に「枕慈童」という話があります。役人が王様の命令で、れき県山のふもとに流れる霊水の源を調べるために山奥へ入ったところ、そこで七百年も前に流されたという菊慈童に会い、不老長寿の薬「菊水」をもらう、というあらすじです。

⑧「西王母仙人」(せいおうぼ)

男の最高の仙人「東王父仙人」に対し、崑崙山に住む絶世の美女「西王母仙人」は女の仙人の総取り締まりといえます。ですから、女の仙人はすべて西王母の指図に従うことになります。

彼女は、仙人の住む場所でも最高の場所に住み広大な宮殿の庭には、白玉の木や不老長生の薬の木が林のように植えられていたということです。

周の穆王が西の方の国々を巡視して、崑崙山の近くへやってきた時、西王母は、王のために宴会を開き、王の長寿を祈り、不老不死の道を得たければ再びここを訪ねてきなさいという意味の詩を贈りました。しかし、彼は仕事が忙しくついに再び訪れることはできなかったということです。

また、前漢の武帝も、不老長生の道を得ようと強く願っているのを知った西王母は武帝を訪ねて、三千年に一度しかならないという桃を七個出しその中の四個を与えました。「おまえは、品性が下労で、殺生を好み、ぜいたくをしている。長生きしたければそれらを一切やめてから不老長生の薬を飲まなければならない。」と教えました。しかし、武帝がそれを守ろうとしなかったので、西王母は再び訪ねてはこなかったし、長生きも出来なかったということです。

出典:森の祭り(森の巻) p.94(書き起こし・書き起こし(未校正))

⑨王子喬仙人・⑩蕭史仙人 (支輪)

⑨「王子喬仙人」(おうしきょう)

王子喬というのは、周の霊王の太子「晋」のことで、彼はたいへん上手に「笙の笛」を吹くことがでできたそうです。その音色は、まるで鳳凰の鳴く声にそっくりの何とも言えない良い音色であったということです。

ある時、浮丘公という仙人と一緒に山の中に登っていってしまいました。その後、三十年あまりたって山の中を探すと、一人の友達の前に姿を現わし「七月七日に、こう氏山の頂上で私を待っているように、家族に伝えてほしい」と言って消えてしまいました。

その日に、皆が待っていると、白い鶴に乗ってやってきて山の頂上に止まりました。遠くからもはっきり見えるのですが、いくら歩いてもそこまでは行くことができません。しばらくすると、人々に手をあげて別れを告げ、また、白い鶴に乗ってどこへともなく飛んでいってしまったといわれています。

⑩「蕭史仙人」(しょうし)

蕭史は、秦の穆公の頃の人で、簫(笙)を吹くことがとても上手で、孔雀や白鶴を庭に呼び寄せる事が出来たという事です。穆公には、弄玉という姫があってこれがお気に召したので、穆公はこの二人を結婚させてやりました。

蕭史は、毎日、弄玉に鳳鳴の調べを教え続けました。数年間もすると鳳凰の声そっくりに吹けるようになりました。二人で簫(笙)を吹いていると、鳳凰がどこからか飛んできて屋根の上にとまりました。穆公が、二人のために鳳台を建ててやると、夫婦してその上に住み、数年間もそこから下りてはきませんでした。 ある日、二人は飛んできた鳳凰に乗ってどこへともなく飛び去っていったということです。

出典:森の祭り(森の巻) p.94-95(書き起こし・書き起こし(未校正))

⑪呂尚仙人・⑫桂父仙人 (支輪)

⑪「呂尚仙人」(りょしょう)(太公望の本名)

呂尚は、生れながらにして、未来を予見したり、生死を予見したりすることが出来たと言われています。殷の紂王の悪い政治から逃れて、隠れ住んでいるときのことです。釣りが好きでよく釣りをしていましたが、三年間一匹の獲物もかかりません。まわりの人々が「もう釣りはお止めなさい。」と忠告すると、「お前たちの知ったことではない。」と云って、また続けます。妻も呆れ果てて実家へ帰ってしまいました。

そのうちに、大きな鯉を釣り上げ、その腹の中から戦の仕方を書いた「兵法書」を手に入れることができました。

周の文王が聖人にめぐりあう夢を見た後、呂尚のことを聞き「私の先祖の太公が長い間望んでいたのはあなたに違いない」と云って車に乗せて連れ帰りました(太公望という呼び名はここから出た)。文王とその子の武王は、政治や戦を援けてくれる彼を先生として敬ったということです。

この時、別れていった妻が復縁を願ってやってきました。呂尚は、妻が見ている前で、盆に入れた水を地面にこぼし「こぼした水を、この盆に入れて見ろ。」と言いました。妻が困っていると「いったんこぼした水は再びもとには戻らない」といって復縁をことわったということです。(諺「覆水盆に返らず」のいわれ)

その後、二百歳ちかく迄生き、自分で死を予告して亡くなったといわれています。

⑫「桂父仙人」(けいほ)

桂父(けいほ)は、象林の人で、色が黒いかと思えば、時には白くなり、また時には黄色に、時には赤くもなったといわれています。この様子を見た南海地方の人々は彼を敬ってていねいに扱ったということです。

桂父は、つねに肉桂(よい香りのする木=ニッキ)と、ひまわりとを服用し、それを亀の脳味噌で和えて用いました。その「丸薬」千個を作るのに、肉桂十斤を使ったそうです。

桂父は、代々にわたって世の中に姿を見せていたということで、いまも荊州の南部では、桂父の作った「桂丸」という丸薬が見られるということです。

出典:森の祭り(森の巻) p.95-96(書き起こし・書き起こし(未校正))

七福神 寿老人・福禄寿 (脇障子、左右)

(P59参照)

出典:森の祭り(森の巻) p.97(書き起こし・書き起こし(未校正))

浜縁下平面の金蒔絵「天人之図」 (浜縁下平面)

下絵は、三浦末

出典:森の祭り(森の巻) p.97(書き起こし・書き起こし(未校正))

波に鶴・波に亀 (腰長押)

(キャプションのみ)

出典:森の祭り(森の巻) p.97(書き起こし・書き起こし(未校正))

力神/龍/秋の草花 (後欄間・右欄間・左欄間)

(キャプションのみ)

出典:森の祭り(森の巻) p.98(書き起こし・書き起こし(未校正))