屋台をめぐる / 南(飯田(賀茂神社))
北陽社 北戸綿
本のスキャン(仮) 屋台物語 南の巻 扉 p.73(1994年刊)基本情報
| 読み | ほくようしゃ(きたとわた) |
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| 落成年 | 昭和55年10月 |
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| 社名の由来 | 明るい太陽の光が「北の里」北戸綿町内会の隅々にまで光り輝き、住みよい町内になることを祈念して命名した。 |
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| 工匠 | 花島辰男(森町戸綿) |
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| 彫刻 | 伊藤章晴(三ケ日町)・山田光雄(号=峨聖・浜松市中沢町) |
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| 塗装 | 村上健太郎(浜松市竜禅寺町) |
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| 車輪 | 村松利雄(森町仲横町) |
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| 御廉の社名揮毫 | 御簾製作……亀八人形店(森町天宮) |
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| 備考 | 建具:古橋銘木(株)専属建具店。住民の親睦、団結、融和をさらにはかって、町内会をますます発展させようと北戸綿の共有財産、象徴としての屋台建設を決定、落成が実現。現屋台が初代であるので、落成の昭和55年庚申10月8日が屋台引き回しの始めとなる。高欄浜縁下四手先木鼻の彫刻が他の賀茂神社氏子屋台とは異なっている。(一部の文字は判読不能) |
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出典:屋台物語 南の巻 p.74
彫刻
秋葉三尺坊 (御簾脇、左)
秋葉神社の祭神で、正確には「秋葉山三尺坊大権現」といいます。
三尺坊は、信濃の国(今の長野県)の人で、母親が観音をねんじて生まれたということです。5〜6才の頃、坊さんになるため出家し、厳しい修行の結果、阿闍梨(あじゃり)という位にまでなりました。やがて、越後の国(今の新潟県)古志郡蔵王堂(現在の長岡市蔵王町金峯神社)の12坊(坊とは坊さんの住む建物)の1つ三尺坊の主となり、その時、不動三昧の法を修行しました。
7日7夜の修行の満願の朝、焼香の火炎の中に鳥のように翼が生え、左右の手には剣と索を持つ相を感得しました。悟りをひらき自ら本尊になろうと思うと煩悩生死の業が消え去り、空中を自由自在に飛ぶ力を身につけることができました。一匹の白い狐にまたがり南の方角に飛んで行き、遠州の秋葉山にやってきて止まったといいます。
この時、空中から「私がいろいろな姿をして諸国をまわり、人々を救って歩こう。」という声が聞こえてきたともいわれています。
これは大同4年(809年)とも永仁2年(1294年)のこともいわれているし2回とも現われたとも言われています。時代はずっと下り、永亨年間(1429〜41年)に三尺坊は尾張の国(今の愛知県)に姿を現し、円通寺の大明和尚の許で修行し、この時、鎮防火燭の秘法を身につけ、それから火防せの神としての信仰が高まったと伝えられているそうです。
三尺坊の信仰は、1に剣難、2に火難、3に水難の神といわれていましたが、江戸時代に庶民が火事を最も恐れていたことから、もっぱら「火難」避けの神としての信仰が深く広がりました。特に江戸時代には、秋葉三尺坊大権現を勧請(神社を建て、神様の魂を分けて祀ること)が各地に大流行し江戸の町にも広がりました。
その勢いに恐れた江戸幕府は禁止の命令を出しましたが完全に押さえ付けることはできなかったということです。
出典:屋台物語 南の巻 p.75(書き起こし・書き起こし(未校正))
賀茂別雷命(カモノワケイカヅチノミコト) (正面欄間)
賀茂神社の祭神「賀茂別雷命」についての言い伝えです。
昔、神武天皇が、大和の国へ遠征したときのこと、賀茂建角身命(カモノタケツノミノミコト)が、八咫烏に変身して先導を務めました。
大和を平定した後、賀茂建角身命は、賀茂川をさかのぼったあたりに宮居を建て、定住することにしました。その時からこの地は、「賀茂」と呼ばれるようになったということです。(現在の下鴨神社のあるあたり)
その後、彼はここで伊賀古夜比売(イカコヤヒメ)と結婚して、息子「建玉依比古命(タケタマヨリヒコノミコト)」・娘の「建玉依比売命(タケタマヨリヒメノミコト)」の二人の子供をもうけました。 この、タマヨリヒメがある日、石川の瀬見の小川に行き川遊びをしているときのことです、川上からきれいな赤い色に塗られた矢が流れてきました。その矢が、あまりにきれいだったので、タマヨリヒメは、拾ってきて自分の床の榜に飾り、つねにながめて暮らしていました。
不思議なことに、それから間もなく、タマヨリヒメのお腹には子供ができ、やがて男の子が生まれました。
その男の子が、やがて大きくなり、成人式の祭りをすることになりました。お祖父さんにあたるタケツノミノミコトは、その孫のために、広い大きな家を造り、すべてをはらい清め、それからたくさんの酒がめに酒を造り、大勢の神様たちを集めて、七日七夜お祝いの酒盛をしました。
その席で、タケツノミノミコトが、成人したその子にむかって、「ここに集まっているたくさんの神々の中に、おまえの父親だと思われる方が、もしいるならば、その方の所へ行って、このお酒を飲ませなさい。」といって杯を持たせました。
するとその子は、手に持った杯を天に向ってささげ持ち、うやうやしくお辞儀をしたかと思うと、突然、家の屋根を突き破ってそのまま天へ昇って行ってしまいました。
その子が雷神の子であったことを知ったタケツノミノミコトは、賀茂という自分の名によって、その子に「賀茂別雷命(カモノワケイカヅチノミコト)」と名付けたということです。子供の父親、赤く塗られた矢は、火雷命(ホノイカヅチノミコト)であったということです。
出典:屋台物語 南の巻 p.76(書き起こし・書き起こし(未校正))
久米仙人(くめのせんにん) (右欄間)
昔、大和の国(今の奈良県)に竜門寺という寺がありました。その寺には、久米という人がこもって仙人になる修業をしていましたが、やがて空を飛ぶ術を身につけ、あちらこちら自由に空を飛び回ってはいました。
ある日のこと、吉野川の上空を飛んでいるときのことです。ずっと下の方を見ると、吉野川の岸辺で洗濯をしている若い女の人を見つけました。その頃の洗濯は、水のなかに浸けた着物を足で踏んで洗うやり方です。ぬれないように自分の着ている着物の裾をまくりあげて、足踏み洗濯をしている女の人の白い脛に見とれた仙人は、そのとたん、仙人の神通力を失ってその女のそばに落ちてしまいました。それから、普通の人にもどった久米は、その時の女の人を妻にして一緒に暮らしていました。
その頃、時の天皇が都を造ることになり、人々に人夫を割り当て、働かせることになりました。大勢の人々とともに、久米もかりだされました。そのうち、他の人夫たちが久米のことを「仙人仙人」と呼ぶので、役人がその訳を聞き、冗談に「仙人の修業をしたというなら、都を造る材木を山から空中を飛ばして都に運んでみろ。」といいました。
そこで、久米は身を清め、道場にこもって七日七夜祈り続けました。八日目の朝、にわかに闇夜のように暗くなったかと思うと激しく雷が鳴り雨が降りだしました。それがぱたっとやんだとたん、青空が広がり、その青空のなか、たくさんの材木が山から都を造る場所に向かって飛んでいくのが見られました。
これを聞いた天皇は、ほうびとして免田(税を出さなくてもいい田)三十町を久米に与えました。
久米は、その土地に寺を建て、その寺が今も残っている「久米寺」であるということです。
出典:屋台物語 南の巻 p.77-78(書き起こし・書き起こし(未校正))
源頼政の鵺(ぬえ)退治 (後欄間)
近衛天皇の仁平(1151〜54年)の頃、天皇が毎夜、何かにおびえて気を失われることがありました。身分の高い坊さんたちに命じて、まじないやお祓いなどやらせましたが、まったく効き目がありません。 天皇が、おびえ、うなされるのは、決まって夜中の2時ごろ、東三条の森の方から一かたまりの黒い雲が流れてきて御殿の上をおおう時です。
そこで、公卿たちが相議し、武士に御殿を警護させることにしました。源氏平氏の武士の中から選ばれたのが、「源頼政(みなもとのよりまさ)」でした。「昔から、武士が朝廷に呼び出されるのは、謀反人を捕えたり天皇の命令に従わない者を滅ぼす時と決まっております。目に見えない化物を退治せよなどとは、聞いたこともありません。」と、不満ではありましたが、天皇の命令なので、仕方なく、家来の井早太(いのはやた)一人を連れて出かけて行きました。頼政は、とがり矢二本を用意しました。そのわけは、もし、一の矢で化物を射そこなったら、二の矢で、化物退治に自分を推薦した役人の首を射ぬいてやろうと思ったからです。
その夜も、いつもの時刻になると、黒雲が一かたまり御殿の上に流れてきました。頼政が、きっと睨むと、黒雲の中に怪しいものの姿がちらっと見えました。
「もし、射そこなったら生きてはいられない。南無八幡大菩薩」と心のなかで祈りながら弓を力一杯に引きしぼって射ました。手応えがあって、何かがばたっと落ちてきました。
「しめたっ」と、井早太が歓声をあげてかけより、落ちてきた怪物をとりおさえ、続けざまに刀で刺しました。
その時、身分の高い者や低い者が大勢、手に手に灯りを持って出てきました。見ると、頭は猿、体は狸、しっぽは蛇、手足は虎の形で、なく声は「トラツグミ」に似ています。その恐ろしい姿を見た者はみんな身震いをするほどでした。
天皇は喜び感激し、「獅子王」という懐剣を頼政に与えました。
頼政は、武術だけでなく、歌の道にも人並はずれてすぐれた才能をもっていました。
出典:屋台物語 南の巻 p.78-79(書き起こし・書き起こし(未校正))
鍋かむり祭り (左袖障子表裏)
滋賀県米原市の筑摩神社には、5月に行なう「鍋かむり祭り」というめずらしいお祭りが伝わっています。
8才になった少女が8人、緑色の衣装に緋色の袴をはき、扇をもって行列を進めていきます。それぞれの頭には三度笠のようなものをかぶっています。よく見ると、それはお鍋です、お鍋をかぶった少女の行列が行きます。
このお祭り行事には、次のような言い伝えが残っているということです。
その昔、この土地の女たちは、1年間に関係をもった男の数だけの鍋を冠り、お神輿の後について行き、神様の前で、その罪を告白し、許しを乞うというものだそうです。その時に、数をごまかすと、たちまち神罰がくだり、神様の前へいった時に、鍋が突然割れてしまうと言い伝えられていたそうです。ところがある時、それを苦にした一人の女が、琵琶湖に飛び込んで自殺するという事件が起きました。これをきっかけに、この祭りは中止されていましたが、供養のために再開されたのが、現在のこの祭り行事です。再び以前のような事件が起きないようにと、大人ではなく、8才の少女が選ばれるようになり、鍋も本物ではなく張り子で作られたものだそうです。平安時代からすでにあった行事らしく「伊勢物語」という古典の中にこの祭りのことをうたった和歌が見られます。
出典:屋台物語 南の巻 p.79(書き起こし・書き起こし(未校正))
日本武尊と草薙の剣 (左欄間)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、天皇の命令で九州を平定し、大和へ凱旋しました。すると、天皇はすぐ引き続いて東の方の従わない者どもを従えてまいれと命じました。
ミコトはすぐに出発、途中で伊勢神宮にお参りをし、お別れを言うためにおばの倭媛(ヤマトヒメ)に会いました。すると、ヤマトヒメは「万一の時には、この袋の口を開けてみなさい。」と言って一つの袋と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=八俣の大蛇からとりだされたもの)を渡してくれました。
ミコトは、東へ東へと相模の国に着きました。すると、そこの国造(くにのみやつこ=役人)が「あそこの野原の中に大きな沼があります、そこに住んでいる神は大変乱暴で、みんな困っています」と申し出しました。
ミコトが、それを退治しようと、言われたとおり野原へ入って行くと、不意に野原に火がつけられ四方から炎がせまって来ました。「しまった、だまされた。」と気が付いたときには火はすぐ側まで来てしまいました。
その時です、ふと、袋のことを思い出しました。急いで口を開けると、中から火打ち石が出てきました。
そこでミコトは剣を抜き、まわりの草をどんどん薙ぎ倒し、火打ち石で火を付けるとあべこべに向こうへむかって焼きたてました。
やっと野原から逃れたミコトは国造とその家来たちをことごとく切り殺し、火を付けて焼いてしまいました。
それから、この土地を「焼津(やいづ)」と呼び、草を薙ぎ払った剣を「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ぶようになりました。
出典:屋台物語 南の巻 p.79-80(書き起こし・書き起こし(未校正))
大力女の特訓 (右脇障子)
昔、朝廷では、7月28日に全国から力持ちを呼び集めて、天皇の前で相撲大会を開く、「相撲節会(すまいのせちえ)」(相撲節ともいう)と呼ばれる行事が開かれていました。
桓武天皇の時代(793年)から恒例の行事となり、承安4年(1174年)を最後に廃止されたということです。
ある年、越前の国(今の福井県)の佐伯氏長(さえきうじなが)という力持ちが、相撲の節会に朝廷から呼び出されました。都へ出て行く旅の途中、近江の国(今の滋賀県)高島郡石橋(現在の安曇川町)というところまで来たときのことです。 たいそうに美しい若い女が、川の水を汲んだ桶を頭の上に乗せ、歩いてくるのに出会いました。あまりに美しいので、ちょっかいを出してやろうと、馬からおりて近付くと、女の、桶を支えている腕をつかみました。
ところが、女は騒がないどころか、男には少しにっこりと笑ったように思えました。いい気になった男がさらに力を入れて強く握ると、女は片手を桶からはずして、男の手を自分の脇の下にはさみ、どんどんと歩いていきます。男はあわてて抜こうとしますが、その手はしめつけられたまま抜けません、とうとうそのまま女の家まで連れていかれてしまいました。
そこで男は、自分は越前の国の代表の相撲人(すまいびと)だということを話さざるをえませんでした。すると女は、「都に集まる大勢の人の中には、もっともっと力持ちがいることでしょう。そんな弱い力でどうするのですか。まだ日もあるので、三・七、21日間ここにとどまって訓練しなさい。」といい、特訓が始まりました。 特訓というのは、女のにぎった にぎり飯を食うだけのことです。けれども かたくてかたくて、はじめの七日間はまるで歯が立ちません。次の七日間で、少しは噛みくずせるようになり、最後の七日間で、やっと食べられるようになりました。そこで女から都の相撲節会へ出発することをすすめられたということです。この女は、高島の大井子(おおいこ)という大力女だったということです。
出典:屋台物語 南の巻 p.80-81(書き起こし・書き起こし(未校正))
天人と三保の松原 (照障子)
(キャプションのみ)
出典:屋台物語 南の巻 p.81(書き起こし・書き起こし(未校正))