養老の滝 (左右脇障子)
昔、美濃の国(今の岐阜県)に、暮らしのまずしい一人の男が住んでいました。山へ入り薪を取ってきて、それを売っては暮らしを立てていました。
この男には年をとった父親がいました。父親は大変お酒が好きでした。それで男は山へ行く時には必ず瓢箪(ひょうたん)を腰につけて出掛け、帰りに薪を売ったお金でその中へお酒を買ってきては父親を喜ばせていました。
ある日、いつものように山に入ったところ、こけの着いた岩に足をすべらせ谷の方へとすべり落ちてしまいました。倒れた男が立ち上がろうとしたときです、どこからか酒のにおいがしてきます。不思議に思ってあたりを見回すと、近くにある石の中から水が湧き、流れ出ている所がありました。
よく色を見ると酒のような色をしています。指につけてなめてみると間違いなく酒の味です。喜んだ男は、それから毎日その酒を瓢箪に汲んで帰っては父親を喜ばせていました。
いつかこのことが時の元正天皇の耳にも入りました。そこで、天皇は霊亀3年9月、その場所を見るために奈良の都からわざわざお出掛けになりました。酒の出る所を見た天皇は「これは、親孝行のほうびに神様がさずけてくれたにちがいない。」と言って、その酒の出る所を「養老の滝」と名付けるとともに、本当におめでたいことだと、11月には年号を「養老」と改めたということです。
本のスキャン(仮)p.67養老の滝(酒を瓢箪に入れて山から帰り父親に与えては喜ばせていた)(左の写真) 調査中
脇障子 左右のうち 解説 p.67
見出し「養老の滝(左右脇障子)」。写真は頁右下の左
本のスキャン(仮)p.67養老の滝(右の写真) 調査中
脇障子 左右のうち 解説 p.67
出典:屋台物語 南の巻 p.67(書き起こし・書き起こし(未校正))
二十四孝①郭巨(かくきょ) (後欄間)
二十四孝
中国で、昔からの大変に親孝行だったという子供を24人選び、その話を集め書いたものです。中国の元の時代に郭居敬(郭居業)という人が選んだ子供24人の話を中心に、ほかに他の人が選んだというものもいろいろあるということです。
二十四孝……①「郭巨(かくきょ)」(後欄間)
昔、中国の漢の時代に「郭巨」という人がいました。
一家は老母と夫婦の三人で仲良く暮らしていましたが大変に貧乏でした。そのうちに、子供が一人生まれたので生活はますます苦しくなりました。ちょうどその頃、病弱の母親の状態が大変悪くなってしまいました。お金が無いために医者に見てもらうことも出来ないし、薬を買うことも出来ません。夫婦で商売に励んでもたいしたお金は入りません。いくら考えてもいい方法は見つかりません。いよいよ仕方なく自分たちのかわいい子供を他人に売ってお金を手に入れるしかないと決めました。
それでも、もし母親の病気に効く薬草でもあればと、夫婦で裏庭のあちこちの草の根を鍬で掘り続けました。そのうちに、母を助けたい一心で黙り続ける鍬の先がカチンと何かにあたった音がしました。不思議に思って音がしたあたりを掘ってみると、きらきら光る黄金が出てきました。この黄金のおかげで年老いた母の病気を治すことができ、子供も売らずにすみました。
出典:屋台物語 南の巻 p.68(書き起こし・書き起こし(未校正))
二十四孝 孟宗(もうそう) (欄間)
詳しくはP120参照
出典:屋台物語 南の巻 p.68(書き起こし・書き起こし(未校正))
二十四孝②姚舜(とうしゅん) (左欄間)
昔、中国に「姚舜(とうしゅん)」という皇帝がいました。この皇帝は、もともとは目の不自由な父親の子でした。母親が早く死んだので、継母からひどい扱いをされながら育ちました。継母が生んだ弟もいばって舜につらくあたりました。しかしそれでも舜は、何一つ文句を言わず、父や継母に孝行をつくし、兄弟にはやさしくしました。
舜の家には、歴山というところに先祖から伝わった田畑がありました。舜は、朝早くから夕方遅くまでこの田畑を耕す仕事に精を出しました。
すると、舜の親孝行に感心したのか、山の中からいろいろな鳥や動物たちが出てきては、舜の仕事を一生懸命手伝い始めました。
舜の親孝行の行いは彼が成長するにつれ、国中に伝わり人々に認められました。そして、ついにもそのときの皇帝「尭帝」の耳にも入りました。感動した尭帝は、この人物ならばと皇帝の位を舜に譲ったということです。
出典:屋台物語 南の巻 p.69(書き起こし・書き起こし(未校正))
瓶を割って友達を助ける司馬温公 (正面欄間)
(詳しくはP60参照)
出典:屋台物語 南の巻 p.69(書き起こし・書き起こし(未校正))
弁慶と牛若丸、五条の橋の対決 (左右御簾脇)
弁慶は生年月日も親の名前もはっきりわかっていません。母親のお腹に十八ヵ月もいたため、生まれたときには、もう髪の毛も長く、歯も生えていたといいます。驚いた父親は「鬼神ではないか。」と、山へ捨てようとしたので父親の妹がひきとって「鬼若」と名付けて育てました。体はたくましく、5才の時には普通の人の12〜3才ぐらいに見えたということです。お寺へ預けられ一生懸命に学問にも励みましたが、やがてたくましい大男に成長するといろいろと乱暴も働くようになりました。
その後、四国などの各地を修業して回って京都へ戻ってきたときのことです。こんなことを考えました。「宝ものというものは何でも千は持つものだ。奥州(今の東北地方)の藤原秀衡(ふじわらひでひら)は、名馬千頭に立派な鎧(よろい)を千も持っているというではないか。よし、わしは太刀を千本集めて宝ものにしてやろう。」
そこで、夜になると京の町へ出て、通る人から太刀を奪いとってはためていき、とうとう九百九十九本になりました。
「今夜はとうとう千本め、何とかいい太刀が手に入りますように。」と祈りながら、京都の五条の橋のたもとで待ち構えていました。
ちょうどその時です、黄金づくりの立派な太刀を身につけた可愛らしい少年が笛を吹きながら静かに歩いてきました。
「やい、その太刀をよこせ。」喜び勇んだ弁慶が少年の前へとびだすなり大声でどなりました。「そんなにほしけりゃ腕ずくでとってみよ。」少年はすずしい顔をして答えました。
予想もしなかった返答に、かっと頭へ血ののぼった弁慶は、大長刀(おおなぎなた)を振るって切り掛かりました。少年はひらりと身軽に体をかわすと、橋の欄干に飛び上がりました。「何をこしゃくな。」とさらに切り掛かります。
何回やってもそのたびに身をかわされ、さすがの弁慶も疲れ果ててしまいました。そして、とうとうこの少年に降参をしてしまい、家来になりました。
この少年は、平家との戦いで敗れ、殺された源義朝の子供、鞍馬山で天狗を相手に剣術の稽古をしていた牛若丸でありました。
本のスキャン(仮)p.70弁慶と牛若丸、五条の橋の対決(大なぎなたで切り付ける弁慶) 調査中
御簾脇 左右のうち 解説 p.70-71
見出し「弁慶と牛若丸、五条の橋の対決(左右御簾脇)」
本のスキャン(仮)p.70弁慶と牛若丸、五条の橋の対決(扇子を投げ付ける牛若丸) 調査中
御簾脇 左右のうち 解説 p.70-71
出典:屋台物語 南の巻 p.70-71(書き起こし・書き起こし(未校正))