屋台に刻まれた物語English

屋台をめぐる / 南(飯田(山名神社))

宝僊社 西組

宝僊社(西組)の屋台
本のスキャン(仮) 屋台物語 南の巻 扉 p.43(1994年刊)

基本情報

読みほうせんしゃ(にしぐみ)
落成年昭和29年7月
社名の由来先輩住民が植林し苦労して長年育ててきた地区の宝とも言える立木を売却したお金で屋台を建設、山林に代わる宝として大切にするとともに町内会の繁栄を祈念して命名した。「壔」は「仙人」の「仙」にも通じ長生きするという意味を持っている。
工匠小西弥吉(掛川市西山)・岩崎才一(森町飯田)
彫刻早瀬宏(浜松市幸町)・中山亮策(森町川原町)
塗装浅羽兼三(磐田郡浅羽町諸井)……昭和47年7月に塗装
車輪村松利雄(森町仲町)
御廉の社名揮毫百地重雄(掛川市)
備考建具作成:土屋喜太郎(袋井市山梨)。屋台の引きはじめははっきりしない。初代屋台は「西和社」という社名で明治の中ごろまで引き回しをしていたが、その後に中止、屋台も処分した。二代目の現屋台建設前は、町内会の戸数わずか27戸、さらに神社との間にある太田川に屋台の通れる橋がなかったため、氏子の中で唯一屋台のない地区であった。昭和28年に、旧飯田村の分収林の伐採による売り上げ金が入り、また、長年の念願であった飯田橋(旧橋)の建設の見通しがついたことから、屋台建設の気運が急速に高まり、昭和29年7月に二代目現屋台が完成した。飯田橋(旧橋)が完成する昭和32年(12月)までの4年間の山名神社祇園大祭には、袋井市山梨の板築橋を迂回し、飯田小学校を拠点にして屋台の引き回しを行なった。

出典:屋台物語 南の巻 p.44

この屋台の写真(2枚)

彫刻

鍾馗神 (正面欄間)

中国、唐の時代、その時の王様「玄宗皇帝」が、いまでいうマラリアという熱病にかかった時のことです。ひどい熱で、死の苦しみに会っているとき、皇帝の夢のなかに突然、大小二匹の鬼が現われました。そのうちの小鬼が、皇帝の大切にしている玉笛と、妻の楊貴妃の香袋を盗んで逃げだしました。これを見た大鬼が小鬼をおいかけ捕まえて食い殺し、玉笛と香袋を皇帝に返してくれました。喜んだ皇帝が、大鬼に名を聞くと「私は、鍾馗といい、もとは武芸者であった。」と答えました。

この時夢から醒めた皇帝は、不思議にも急に熱が下がり間もなく全快しました。喜んだ皇帝は、絵描きを呼び、夢に現われたその鍾馗の像を描かせたということです。

このようなことから、鍾馗の像を掲げて邪悪を払う風習が始まったといわれます。

日本では、室町時代の頃から鍾馗に対する信仰が流行し始めました。悪鬼や疫病を払う神として、また、その頃最も恐れられていた病気「痘そう(=天然痘)」避けに顔を赤く塗った鍾馗像を祀ったり、さらに小鬼を貧乏神と考え、貧乏神を追い払う貧乏避けの神として祀ったりもされました。

端午の節句(五月五日)に飾るのぼり旗に鍾馗が描かれたり、武者人形にも鍾馗がかたどられたものが飾られ男の子の健やかな成長を祝う習慣が今も残っています。

出典:屋台物語 南の巻 p.45(書き起こし・書き起こし(未校正))

倭建命(ヤマトタケルノミコト)の熊襲建(クマソタケル)退治 (後欄間)

第12代の景行天皇は、偉大な体格をしていて、その子供は80人もいました。その80人のうち若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト)と、小碓命(オウスノミコト)、それともう一人の皇子の三人を残し、すべての子供をそれぞれの地方へ役人として遣わしました。

しかし、天皇は、オウスノミコトの特別に荒い気性を恐ろしく思われ、そばから遠ざけようと考えるようになりました。

「実は、西国に熊襲建(クマソタケル)という荒くれた兄弟がいる。二人とも私の命令に従わない無礼者だ。行って、討ちとってこい。」と、オウスノミコトに命じました。

この時、オウスノミコトは額で髪を結った、まだ15・6歳の少年でしたが少しも恐れることもなく、すぐに支度をして出発しました。

途中、伊勢の皇大神宮にいる叔母の倭媛(ヤマトヒメ)にお別れを言うために立ち寄りました。ヤマトヒメは、やさしくいたわり、自分の衣裳一揃いと懐剣をお別れに与えました。

ようやく、熊襲に着いて、クマソタケルの家へ近付いてみると、家のまわりへは軍勢を三重にも立て囲ませているという状態です。様子をうかがうと、厳重な警戒の中では、もうじき出来上がる新しい館の新築祝いの宴会の準備中です。

いよいよ宴会の日、ミコトは髪を少女のように結いなおし、叔母からもらった衣裳を着、すっかり少女の姿になり、他の女に混じってタケルたちの宴会の部屋に入りこみました。

ミコトを本当の女と思ったクマソタケル兄弟は、その姿の美しいのが気に入って自分たちの間に座らせ、酒をつがせ喜んで飲んでいました。

ミコトは、みんなが酔ってきたのを見計らって、そっと懐から剣を取出し、いきなり兄のクマソタケルの胸をひと突きに突き通しました。それを見た弟のタケルは、あわてて部屋の外へ逃げようとしました。ミコトは、そうはさせまいと、階段の下へ追い詰めると片手で背中をつかみ尻を突き刺しました。

弟のタケルは、じたばたするのを止め「どうぞその刀を動かさないでください、申しあげたいことがあります。」手を止めたミコトに「あなたは、いったいどなたでございますか。」きかれたタケルは、「おれは、大和で天下を治めている大帯日子(オオタラシヒコ)天皇の皇子、倭童男王(ヤマトオグナノミコト)という者だ。お前たちが天皇の命令に従わず、無礼なふるまいをするのでやっつけるためにやってきたのだ。」と、勇ましく名乗りました。「なるほど、やはりそういう方であったのですか。西の国には私たちより強い者は一人もいません。大和にはまったくすばらしい方がおられたものだ。おそれながら、私があなたに倭建命(ヤマトタケルノミコト)という名前をさしあげましょう。」と言いました。

ミコトは、タケルがそう言い終わるやいなや、まくわ瓜を切るようにぶすぶすと切ってしまいました。それからは、みんなミコトのことを「倭建命(ヤマトタケルノミコト)」と呼ぶようになりました。

出典:屋台物語 南の巻 p.45-47(書き起こし・書き起こし(未校正))

七福神②弁財天 (左右欄間)

七福神の紅一点で、琵琶を弾く美人の姿をしています。

この神様は、もとは、インドのインダス川を神様として表したものだったそうです。そのせいか、日本でも水辺の近くの「ほこら」に祀られていることが多いし、水辺に住む蛇と結び付けられたりもしています。ぼん語「サラスヴァティ」が、妙音天妙音楽天と訳され、それが、大弁天、大弁財天女などと呼ばれ、さらに、略して「弁天」、俗に、「弁財天」とも呼ばれるようになったと言われています。

この神は、人に幸福や知恵を与え、長生きや財宝を授けてくれ、天災地変を防ぎ、戦では勝利をもたらしてくれる仏神であり、さらに、人の汚れを払い、富貴名誉・食物・勇気・子孫繁栄だけでなく、学問や技芸・雄弁をも守ってくれると言う結構ずくめの神として信仰されているようです。また、「弁財天」は、ぼん天の妻と言われたり、日本の神話に出てくる宗像三神の一人、市杵島媛命と結びつけられたりもすると言うことです。(他の神様はP41・95・101・102・119参照)

出典:屋台物語 南の巻 p.47(書き起こし・書き起こし(未校正))

恵比寿と大黒天/布袋と唐子/竜虎 (左右欄間・左右脇障子)

(キャプションのみ)

出典:屋台物語 南の巻 p.48(書き起こし・書き起こし(未校正))

(行事)